和田一郎副牧師
コヘレトの言葉 3章1~13節
テサロニケの信徒への手紙 3章6~15節
2021年9月26日
Ⅰ. 労働のはじまり
今日の聖書箇所は、働くことの大切さをパウロがテサロニケ教会の人々に向けて訴えている箇所です。10節の「働こうとしない者は、食べてはならない」という箇所から「働かざる者食うべからず」という諺を生みました。今は本屋さんに行くと若い人や、子ども向けにも働くことに関する本が並んでいますし、働く女性も増えています。コロナ禍になって1年半、働き方が大きく変わったという人も多いでしょう。今日は現代的な仕事の在り方にも焦点を向けて、労働の意味について考えていきたいと思います。
人間に与えられた最初の仕事というのは、神様が創造し「良かった」とされた世界を治めることでした。
「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ」(創世記1章28節)とあります。神様は被造物を治める働きを人間に委ねました。その仕事としてまずエデンの園を耕し園を守り、そして被造物に名前をつけるという働きがありました。そこで注目したいのが、神様は、それらを一人の人間だけに任せたのではなかったということです。男と女が造られ、初めから二人で仕事をするように命じられたのです。
天地創造の6日目に男が造られ、女が造られアダムとエバにこの地を治める仕事を与えたのです。ですから、仕事をすることは最初から一人ではなかった。「人が独りでいるのは良くない」と言われたように、労働においても一人では良くないので、共に働く助け手が最初から与えられたことを示しています。
わたしたちの仕事をよく見てみると、誰かの為になることが仕事として成立していることが分かります。どんな職業でも誰かの役にたっている、誰かの必要なものが世の中で仕事として成り立っています。天地創造の業の中でアダムの助け手としてエバが造られたように、神様が造られた地上のこの世界には、人と人とが助け合う仕組みとして仕事があると言えます。自分は自分ができることをして誰かの助けになる。人は独りでいるのは良くない、だから生きていくうえで必要な助け手が「仕事」を通して与えられているのです。
時々、「聖書には労働は罰として与えられたと書かれている」と言う人がいます。「あなたは生涯にわたり苦しんで食べ物を得ることになる」(創世記3章 17節)という聖書箇所を、罰として労働しなければならなくなったと理解しているようです。しかし、これはあくまでも労働に苦しみがともなってしまったことを意味しているので、決して罰として労働があるのではありません。「治めなさい」と人間に命じられているのは、あくまでも「祝福」として労働が与えられているのです。
やがて16世紀以降、宗教改革者たちは、職業に「calling」という言葉を用いて、与えられた仕事に励むことは信仰的な意味があると理解しました。今あるこの仕事は神様に与えられた天職だという考えです。さらに労働を通して神様の偉大さを証ししていくという考えが広がりました。ところが、産業革命による大量生産技術が進むと、工場ができて、歯車のような働きが始まって、仕事における宗教観は消えていきました。人間疎外、個人より組織、経済発展優先の構造が今現在も続いていると言えます。神様の計画に基づいた働き方の改革が必要です。人間らしさ、自分らしさを現わす仕事の在り方を考える必要があるのではないでしょうか。
Ⅱ. 自由意志で選んでいく
今日の聖書箇所でパウロは「誰からもパンをただでもらって食べたりしませんでしたし、誰にも負担をかけまいと、労苦し骨折って、夜も昼も働いたのです。」と熱心に働いたことを主張しています(3章8-9節)。
12人の使徒たちは、漁師や徴税人の仕事を捨ててイエス様との働きに専念しました。しかし、パウロはテント作りの仕事をしながら宣教活動をしました。どちらが神様の御心に相応しい働き方でしょうか?どちらも相応しいのです。なぜなら神様は人それぞれに自由な意志を与えて、自分にあった働き方を、自分で見つけることを望んでいるからです。自分の好き勝手にしていいという事ではありません。聖書に書かれている神様の御心の原則的なことを心に留めて、自分の意志で働き方を考えていくことを、神様は望んでいるのです。
Ⅲ. 父の仕事
私は子どもの頃、家の仕事を手伝っていました。父は会社務めを辞めて、職業訓練学校に通いタイルを貼る職人の仕事をはじめました。新築の家を建てる現場が仕事場でした。冬の寒さの中で作業したことなどをよく覚えています。父は個人事業主でしたが、現場に行く途中で建材屋さん等に寄りますし、建築現場に行くと壁紙を貼るクロス屋さん、電気屋、ペンキ屋や左官屋さんなど、他の職種の職人さんがいるのです。休憩時間になると現場の職人さんたちと、いろいろな会話がありました。それは父を通して垣間見た大人の世界でした。父は誰とでも親しく話しができる賜物があったようです。父の仕事を手伝うのが好きだったのは、自分が役に立っていると感じられましたし、学校では教えてくれない、大切な何かがあったからだと思います。結局、わたしは学校を卒業して会社務めを20年以上しました。しかし、父の仕事を手伝った経験は、自分の職業観や、仕事に貴賤はないという意識に繋がっていると思います。
そのタイル職人の仕事は減ってしまったと聞いています。タイルを使わない住宅が増えているようです。仕事って変わっていくのです。今ある仕事も将来AIにとって変わって無くなるかも知れないと言われます。その変化のスピードも速くなっているように思います。ですから、将来の仕事に不安を感じる若者が多いと思いますし、現役で働く以上、年齢がいくつになっても仕事は私たちの生き方に影響する重大な関心事です。
Ⅳ. 「働き方」は心に記されている
例えば、目の前に三つの仕事があるとします。どの仕事を選ぶのが神様の御心なのでしょうか?と祈るとします。しかし、三つとも神様の御心に適った仕事かも知れません。なぜなら神様の御心は一つとは限らないからです。神様の御心は究極的には一つと言えますが、人間の目の前にある選択においては、一つとは限りません。どれを選んでも神様は良しとされるかも知れない。つまり「どの仕事を選ぶか?」よりも「どんな働き方をするのか」というのが神様の関心事だということです。
神様が関心をもっておられる働き方、それは私たちの心に記されています。
ローマ書2章には「律法の命じる行いが、その心に記されている」(ローマ2:15)とあります。私たちの心には神様の律法が記されています。生まれる前から、神のかたちに造られた人の心に、神様の律法が心に記されています。神様の律法というのは第一に「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒め、第二に「隣人を自分のように愛しなさい」という二つのことに集約されます(マタイ福音書22章37‐39節)。これが心に記されています。
旧約聖書にある十戒の第1戒から第4戒は「心を尽くして神を愛すること」、第5戒から第10戒までの後半は「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に集約されていて、人間にとって最も相応しい生き方を示しています。人間にとって根源的な生き方がそこにあります。隣人との関係において、なぜ姦淫しないのでしょうか?それは、その人を愛するからです。なぜ殺さないのでしょうか?それは、その人を愛するからです。なぜ盗まないのでしょうか?それは、その人を愛するからです。なぜむさぼらないのでしょうか?それは、その人を愛するからです。ですから、この心に記された基本的な神の律法に従うならば、隣人の中にある神のかたちの尊厳を大切にして愛するということが、私たちの生き方です。
「どんな働き方をするのか」その時に考えたいことが、仕事は一人でするのではないということです。必ず誰かの支えがある、誰かとの信頼関係があって成り立つ、誰かの為にしているから頑張れる、どこかの誰かの役に立っているから続けられます。神様は、アダムとエバの二人で地上を治める働きを委ねました。それが神様の求めた仕事のあり方でした。隣人と共に働き、どこかにいる隣人の為に働く、そうして神様に応えていく、隣人と神様との関係が整った仕事、それが神様の御心に適った仕事と言えます。ですから、そのことが出来るのであれば、どんな仕事についても神様の御心に適っている、自分が自分らしく神様に与えられた賜物を生かせる仕事と言えるのです。
世の中も仕事も動いているのですから、終身雇用が全てではないでしょう。転職することも神様の御心かも知れません。失業する時もあるでしょう。その時も決して自分は一人ではない、神の家族がいて、人は生きているだけで価値がある、存在しているだけで価値があることを忘れないで欲しいと思うのです。そのことが分かって仕事に就いた時、きっと働く意義を見つけることができると思います。なぜなら自分と同じように、隣人一人ひとりにも価値があり、神様はその一人ひとりを愛していると気付けると思うのです。
今日は、働くということについて御言葉から神様の御心を分ち合いました。
エレミヤ書には次のような言葉が記されています。
「私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、『主を知れ』と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである」(エレミヤ書31章33-34節)
わたしたちの心に記された神の律法を回復してくださったのは、メシアなるイエス・キリストです。イエス様の十字架があってこそ、私たちは心に記された神様の御言葉を、より広く、より深く知ることができます。与えられた仕事を通して神の栄光を現わしていきましょう。お祈りをいたします。