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主日共同の礼拝説教

妬む神 第二戒 ― 十戒

松本雅弘牧師
出エジプト記20章4-6節
ルカによる福音書10章25-28節
2021年10月3日

Ⅰ.はじめに

今日のこの第二戒は、比較的長々と語られていますが、ポイントは、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」ということです。そしてその理由は、「私は主、あなたの神、妬む神」だから、というのです。

Ⅱ.偶像礼拝

今日の箇所、出エジプト記20章を読み進めていき32章になると、そこに金の子牛を礼拝する事件が起こります。「出エジプト」という大きな恵みの体験をしたにもかかわらず、主なる神さまを捨て金の子牛の像を造り、それにひれ伏すイスラエルの民の姿が出て来ます。実は彼らは、こうした歩みをこの後ずっと繰り返していくのです。旧約聖書を見ますと、その彼らに対して主なる神は預言者を遣わし、「偶像を拝むな」というメッセージを伝え続けるという記録が出て来ます。それは裏を返せば、イスラエルの民がいかに偶像になびく民だったか、そして私たち人間がいかに偶像礼拝に陥り易い存在で、神さまの恵みを忘れやすい者なのかを物語っています。
今日の第二戒に、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない。」とありますが、この言葉を注意して読みますと、ここで神さまは、単に「あなたは彫像を造ってはならない」と戒めるだけでなく、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」、「自分のために」という言葉を添えて戒めておられるのに気付きます。ここに偶像を生み出す根源的理由がはっきり示されているのです。「自分のため/私たちのため」です。自分に都合がいいから、自分に役に立つと思うから偶像を造る。そして本当に皮肉なのですが、その神が真の神さまかどうかは二の次なのです。
考えてみれば、この時すでにイスラエルの民は「出エジプト」という、とてつもない大きな恵みを経験していました。その救済の御業のおかげで自由が与えられ生かされている。そうしてくださったのが他の誰でもない、主なる神さまです。しかも「あなたの神」とありますように、「私とあなた」という人格的な関係の相手として選んでくださった。預言者ホセアはこれを結婚関係にたとえて語ります。そのように愛されているはずのイスラエルの民が、モーセがシナイ山で十戒や様々な教えをいただいている最中、山の麓にいて、「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください」と懇願し、金の子牛の形の偶像を鋳て作り、それにひれ伏し、お祭り騒ぎに興じたのです。
ところで「偶像礼拝」と言われると心に浮かぶ聖書の箇所があります。イザヤ書44章にある預言者イザヤの言葉です。イザヤは痛烈な皮肉を込めて、偶像礼拝を非難しています。技術を尽くして立派な偶像を造る鍛冶屋や木工たちの無力さ、偶像そのものの無力さが語られています。14節には、「彼は杉を切り/松や樫の木を選んで/林の木々の中で育てる。また、月桂樹を植え、雨がそれを成長させる」とあります。杉は伐採し、松や樫の木は残しておいて育てる。さらに月桂樹は雨水の潤う場所を見つけてそこに植えるのです。このイザヤの言葉を見ますと、あくまでも「育てる」主語は「彼/人間」です。確かにコリントの第一の手紙3章6節などには、「私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です」とあって、聖書の理解によれば育て、成長させてくださる主体は神さまなのですが、この人にとっては、自分が育てたという意識ですから、育てた木は当然、自分のもの。自分のものですから、それをどう使おうが使う者の勝手となります。そのようにして、木を切って薪として暖を取り、またパンを焼く。体も暖まり腹も一杯になる。満足です。ところが、ふと〈何か足りない〉と思う。そうです。神が足りないのです。そこでどうしたかと言えば、薪にした後、残った木で神の像を造り、その前にひれ伏す。そして何と17節、「救ってください。あなたは私の神だから」と祈るというのです。
確かにここでイザヤは、ひれ伏し拝む人の姿を語っていますが、ただどうでしょう。心のどこかに、これは「自分が造ったもの」という思いがあったに違いない。心の片隅で「それは木に過ぎない、だって俺が造ったのだから」と思っているのです。そうした矛盾を抱えながら、「あなたは私の神、私たちのもの、そのように祀(まつ)ってあげるのだから、私たちの言うことを聞きなさい」と言うのです。

Ⅲ.願望の投影としての偶像

ところで、主イエスは山上の説教で、こんなことをお語りになりました。「祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。彼らのまねをしてはならない」。(マタイ6:7―8)。
「異邦人」とは、主なる神さまと「私とあなた」の関係に入っていない人たち、信じていない人々を指す言葉です。ところが、そうした彼らも祈りを捧げている。しかもその祈りは「くどくどと述べる、言葉数が多い」と主はおっしゃるのです。
この点について、こんな思い出があります。クリスチャンになる前です。受験生だった頃、実家近くの「学問の神様」と言われる亀戸天神に行き御札を貰って帰って来ました。さっそくそれを部屋に貼り、朝晩、それに向かって手を合わせました。ところが受験が終わると、何が起こったかと言えば、御札に向かっての祈りがパッタリ止んでしまった。何故なら、私の側に願いがなくなってしまったからです。
旧約の預言者は、偶像は人間の側の「願望の投影」だと教える。たくさんの手を持つ千手観音は生きとし生けるものを漏らさずに救う、それ故、その手のひらに目が刻まれ、その目で悩み苦しむ者を見つけては手を差し伸べ救うのだそうです。私たちの側のニーズが多ければ多いほど、思いが強ければ強いほど、手の数も増えてくるのです。ですから偶像礼拝が危険なのは、私たち人間とは祈る対象、拝むものによって支配される傾向にあるからです。結局、自我の虜、願望の虜となり続けるからでしょう。何故なら、あがめる(拝する)ことと仕えることは深く関係しているからです。

Ⅳ.妬む神

今日の新約の朗読箇所をご覧ください。律法の専門家と主イエスとの間に交わされた問答が出て来ます。「律法には何と書いてあるか」と主イエスが質問しますと、律法の専門家は答えました。「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。今日の第二戒、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」という戒めは、言い換えれば、「神さまを愛する」ということなのです。
十戒の冒頭で、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」とご自身を現わされ、救いの御業に現わされた、その御方の愛を深く知れば知る程、本来、人間とは最も遠いお方が、「私とあなた」という最も近い関係に私たちを選ばれた。それは、そのお方と新郎・新婦のような間柄とされた私たちです。
私たちは、このようにしてくださった神さまを知れば知る程、今日の第二戒で、「私は主、あなたの神、妬む神である」とそう言われる、主の言葉の意味を理解することができるのではないでしょうか。
ある神学者が、この点についてこう語ります。「人間は神なくして済ますことがある。しかし、神は人間なくして済ますわけにはいられない方である」と。ルカ福音書15章を思い出していただきたい。あの放蕩息子の譬え話に出てくる父親は、息子を見つけたら、走り出すのです。子どものようです。そして言いました。「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と。主イエスは、これが真の神さまなのです、と語られます。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」。私たちは神さまにとって、本当に大事な掛け替えのない存在とされました。ですから、その私たちの思いが、神ご自身に向かわず、自分が造った偶像に向かう時、妬まないわけにはいかないのです。それだけの激しさをもって私たちを愛し抜いておられるお方が、主なる神さまなのです。
出エジプト記20章6節に興味深い表現が出て来ます。「私を愛し、その戒めを守る者」。そうです。神を愛することはイコール、神の戒めを守ることだ、と。そのお方の言葉を大切にする。そのお方が傷つくことを私たちはしない。何故?そのお方を愛しているからです。神さまは私たちを選び、愛してくださっている。だからそのお方を神として私たちも生きていくのです。
お祈りします。