松本雅弘牧師
出エジプト記20章7節
ルカによる福音書19章1―10節
2021年10月10日
Ⅰ.はじめに
今日の第三戒に「主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない」とあります。こうした言葉と直面すると、「主の名を唱える時は気を付けなくては…」、「いや、主の名はできるだけ口にしない方がいいらしい」と考えてしまうかもしれません。しかし一方、信仰生活を送る上でも「主の名」を口にしなければ話にならない現実もあります。そもそも、この第三戒は私たちにどのようなことを求めているのでしょうか。
Ⅱ. 神を愛するから戒めを守る
ところで、聖書は、「名はその名を持つ存在の本質を表す」と理解します。そうした中、今日の第三戒に、その神さまのお名前が、「主(ヤハウェ)」と示されていますが、この名は神さまの本質をどのように表しているのでしょう?
「ヤハウェ」というヘブライ語は、「存在」を意味する「ハーヤー」という言葉に由来すると言われます。「ハーヤー」は「存在する/在る/生成する」という意味の動詞です。そこから専門家たちは、神の名前は、「すべてを存在させるもの」という意味だと説明してきました。確かに天地万物の創造に際し、神さまは「光あれ」と言葉を発せられると光が存在しました。さらに光と闇をお分けになった後、「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」と書かれていますように、被造物に名をお与えになりました。
また出エジプト記3章には、モーセが神のお名前について尋ねますと、神さまは、「私はいる、という者である」(3:14)とお答えになっています。ここから聖書学者は、「ヤハウェ」という固有名詞をお持ちの神は、「すべての生きものに生きよと命じる者」なのだと解釈しています。
そうした神さま、私たちを含め、全ての被造物の存在の根拠であるお方が十戒に先立って「私は主、あなたの神なのだ」と宣言しておられる。あなたを選び、「私とあなた」という人格的な恵みの契約関係に入れてくださった。そうした上で私たちに対し、「主の名をみだりに唱えてはならない」と戒めておられるということなのです。
ここに「みだりに唱える」、「みだりに」という言葉がありますが、調べてみますと、神さまの名前を繰り繰り返し、それも機械的に呪文のように唱える。それによって何をしようとするかと言えば、自分の願いを満足させるために、神を動かそうとする。そうした当時の異教的な習慣を暗示した言葉が「みだりに唱える」ことだと分かりました。とすると、第三戒でいましめられている罪は、第二戒の偶像を造る時の人間の思いと通じ合うところがあるのではないでしょうか。何故なら、ご人格のあるお方をモノのように扱う。こちらの都合で操るように、そのお名前を機械的に呪文のように唱える。これは、神さまに対して大変失礼な行為であり、ましてや救いにあずかった側の私たちにとっては最もふさわしくない、神さまとの関わり方でしょう。
第三戒で問題にされている罪、それは、第二戒のように、具体的な像を刻まなかったとしても、自分の思いを満足させるために、人格をお持ちの神を非人格的にモノ扱いする行為に他ならないということです。
地鎮祭を思い起こしたらよいかと思います。新しく家を建てる時、キリスト教では「起工式」という式を持たせていただきますが、一般には神道の儀式で「地を鎮める祭り」と書いて「地鎮祭」という式が行われます。建築工事に入る前に、その土地の神々に供え物をして宥めておかないと祟りがあると厄介なので、そうしたことが起こらないようにとお祓いをする。そのような慣習が日本にはあります。そっとしておく。余り関わりを持たない。神の名前は呼ばない方がいい。そうした非人格的な神理解から来る、言葉にならない恐れからでしょう。様々な儀式が行われるのです。
Ⅲ.「私とあなた」という関係に呼び出された恵み
しかし、十戒をお与えになった神さまはちがいます。「私は主、あなたの神。あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した」お方です。それゆえに、私たちを妬むほどに愛される神さまです。「光あれ」と言葉をもって存在を呼び出されるとともに、「私の僕ヤコブ、私が選んだイスラエルのために/私が呼んだ名を/あなたに名乗らせようとした」(イザヤ45:4)と御言葉にあるようなお方なのです。
幼稚園の子どもたちが礼拝で歌う賛美歌の一つに、「ひとりひとりの名を呼んで」という歌があります。「ひとりひとりの名を呼んで/愛してくださるイエスさま/どんなに小さな私でも/覚えてくださるイエスさま」
この歌詞を味わいつつ賛美する子どもに、「神さま、イエスさまってどういうお方ですか?」と尋ねたら、「それはね」と言って、「ひとりひとりの名を呼んで/愛してくださるイエスさま/どんなに小さな私でも/覚えてくださるイエスさまだよ」と答えてくれたら本当に幸いです。
そうです。私たちの神さまは呪文を唱えて操作できるお方ではありません。供え物をして宥めておかないと祟りがある、厄介なお方ではないのです。私たちをお造りになったがゆえに、私たちの本質にふさわしい名をもって、私たちを呼びだしてくださる、そして愛してくださるお方が、私たち神さまなのです。「私たちなしでは済ませることのできない」、そうした思いをもって、「私とあなた」という関係に私たちを呼びだしてくださる。考えてみれば、これは大変なこと、物凄い大きな恵みなのではないでしょうか。
この恵みに留まる続けることが信仰生活です。今ご一緒に学んでいる十戒も含め、「私とあなた」という、人格的な親しい交わりに生かされ続け、そのお方との絆が深められて行く中で、一つ一つの戒めは、まさに、そのお方が大事だから、異教の神々を信じる人たちがするように、神の名を使って非人格的な扱いを通して、自分の願いを満足させるような生き方はしないことを選び取っていくのではないでしょうか。あるいは、私たちの祈りが呪文のようにはなっていなかったとしても、聖書を通し、主イエスを通してご自身を示された神さまに向かっての祈りの言葉になっているかどうかを覚えながら祈る。何故なら、祈りとはそのお方に対する語りかけであると同時に、そのお方の御心を聞くための手段だからです。
Ⅳ.ザアカイの場合
今日の新約の朗読箇所にはザアカイが登場します。ある日、彼は、主イエスが自分の住むエリコの町にやって来ることを知ります。街道は群衆で膨れ上がり、背の低いザアカイは、一目でも見たい、見逃してはならないと思い、いちじく桑の木に登り、その到着を待つことにします。
一方主イエスは、街道を進む中、いちじく桑の木の下まで来ると足を止め、上を見上げ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひ、あなたの家に泊まりたい!」と、ザアカイを見つけ、名前をお呼びになったというのです。この場面を想像しますと、何か心がワクワクしてきます。主イエスは、どんな声の調子で、どのような表情でザアカイを見上げ、声をおかけになったのでしょう?!
私たちもザアカイ同様、主イエスに見つけられ、呼び出され、「私とあなた」という生きた関係に招き入れられた者たち、そのような意味での救いにあずかっています。
ですから、自分の願いを満足させるために、「ものをぶつけたり、やかましい音を立てる」ように、御名を繰り返し機械的に、それも呪文のように唱えることで神さまを思い通りに動かす必要もない。何故なら、神さまは祈る前から私たちの必要をご存じですから。
ザアカイは、主イエスと出会い、人生に大きな変化が起こりました。主イエスとの出会いがきっかけとなり、それ以降の彼の人生の全てを変えてしまったと言っても過言ではないでしょう。一番大切だと思っていた財産に対する見方も一変してしまいます。ザアカイの心に他者を思いやる気持ちが芽生えてきたことを、ルカ福音書は伝えています。
主イエスは、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」とおっしゃいました。主イエスはザアカイを「失われた者」と見ておられたのです。主イエスとザアカイとの出会いは、単に良い教師と会い、良い影響を与えられたというものではありません。「失われて」いたから、「捜して」もらったのです。
十戒を授かったイスラエルもザアカイと全く同じでしょう。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」とご自身を現わされ、エジプトの隷属から、神さまを知らない世界から、「私とあなた」という親しい人格関係の中に呼び出してくださった。そのお方を愛するがゆえに、そのお方の尊い御名を機械的に、それも呪文のように唱え、そのお方を利用するようなことはできない。私たちは十戒を守ることを通して、そのお方への愛を表していきたいと願います。
お祈りします。