松本雅弘牧師
出エジプト記20章8―11節
マルコによる福音書3章1―6節
2021年10月17日
Ⅰ.主イエスの時代の安息日を守ることについて
ある安息日に、弟子たちが歩きながら麦の穂を摘んで食べているのを見たファリサイ派の人々と主イエスとの間で安息日論争が起こりました。主イエ スは、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である」と語り、論争に区切りをつけ、弟子たちと共に会堂にお入りになると、そこに片手の萎えた人がいました。ファリサイ派の人々は、その人を癒されるかどうか、うかがっていたとマルコは伝えます。主イエスの時代、ユダヤ教では、「なぜ休むのか」と安息日の意義を問う代わりに、「『休まなければならない』という命令ゆえに休む」、さらに「どこまでしたら仕事になるのか」という方向に話を発展させて考え、受け止めていた現実がありました。そうです。目的と手段とが入れ替わっていたわけです。さて、このような対立を生むきっかけとなっているのが、十戒の中の第四戒なのです。今日は、この第四戒についてご一緒に考えてみたいと思います。
Ⅱ. 安息日を覚える二つの理由―神の創造と救済を覚えること
第四戒は「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」と始まります。仕事は六日間のあいだに済ませ、「七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない」と書かれています。
ヘブライ語で「安息日」という言葉は、「中止する」という動詞から出来た言葉です。また「聖別しなさい」とは「区別しなさい」という意味です。つまり安息日とは一週間のうち一日を他の日から「区別」し、仕事を中止する日ということでしょう。しかも本人だけではありません。10節後半を見ますと「あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である」とある。家族、使用人、在留異国人、家畜までも含めてのことでした。
申命記を見ますと、改めて十戒が語られている箇所が出て来ますが、そこには「そうすれば、男女の奴隷も、あなたと同じように休息できる」と語られています。つまり仕事をしないことで、その本人以外にも使用人たちも休むことが出来、さらに被造物世界も人間が活動を中止することで、同じように休息できる。回復されていくのだ、と神はモーセを通して語られたわけなのです。ですから単に仕事をしないというだけが安息日ではありません。むしろ積極的に「覚える」日として「特別な意味合い」をもって定められているように思います。11節に、
「主は六日のうちに、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休息された。それゆえ、主は安息日を祝福して、これを聖別されたのである。」とありますが、まさに安息日を守るのは、神が六日の内に創造の働きを終えて七日目に休まれたからで、言い換えれば、神の創造の御業を覚えるということでしょう。
そしてもう一つは申命記に、「あなたはエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が、力強い手と伸ばした腕で、あなたをそこから導き出したことを思い出しなさい。そのため、あなたの神、主は、安息日を守るようあなたに命じられたのである。」(5:15)とあります。すなわち、神の救いの御業を覚えるために安息日を守るのです。
まず一つ目の、「神による創造の御業を覚える」ことについて考えてみましょう。
神による創造の御業を伝える創世記第1章を見ますと、神が言葉をもって世界を創造し、造られた被造物をご覧になり、一日ごと、「見て、良しとされた」と語られました。ここからキリスト教では、被造物として存在すること自体が祝福で、この世にあるものは何一つ無意味に存在するものはないと教えます。
ところが、神さまが造られたこの世界が現在、危機にさらされています。地球温暖化が原因で毎年のように水害、洪水が日本各地で、また世界的にも起こっています。そうした環境破壊の原因について議論される際に、リン・ホワイトという歴史学者は、その根本的な原因はキリスト教にあり、創世記1章26節から28節の記述が、人間と自然を分離し、人間が自然の支配者であると考えたことで自然破壊が始まったというのです。しかし、この後、創世記を読み進めますと、「治める」ことの具体的な働きとして、土を耕す使命が神さまから与えられていきます。その「耕す」というヘブライ語は、元々は「大切に管理する」という意味で、辞書には「奉仕する」「礼拝する」という意味も出て来ます。
つまり、聖書が教える元々の人間に託されている使命は、自然を大切に管理すること、あるいは自然に奉仕することであって、人間たちの都合で自然から搾取し破壊することを正当化するための言葉ではなく、むしろ、自然と人間の相互依存を、神さまは説いていると読むべきでしょう。
話を元に戻しますと、神さまは、そのために、安息日を守り、「神による創造の御業を覚える」ようにと命じておられる。創造の御業を覚え神をほめたたえる。また、実際に自分たち人間も含め、被造世界の回復のために休みを与える。それが聖書の説く、安息日を守る一つ目の理由です。
二つ目は「神による救いの御業を覚える」ことです。先ほどの申命記5章15節の言葉の背景にあるのはイスラエルの民が、エジプトの奴隷として暮らしていた苦しみの記憶です。しかしそこから解放されて、今、このように生かされているのは、他でもない、主なる神さまが、「力強い手と伸ばした腕で、…そこから導き出し」てくださったからに他ならない。安息日は、そうした神の救いの恵みを思い起こし、感謝して喜ぶ日なのです。私たちは本当に忘れやすい。恵みを有難いと思わず、当たり前と思ってしまいます。ですから神さまは、この第四戒で安息日を、神の創造の御業、救いの御業の両者を覚える日として定めてくださった。それによってイスラエルの民が、さらに新約の新しいイスラエルである私たちにとっても生きる上で活力となるようにしてくださったのです。
Ⅲ.第五戒以降につなぐ橋渡し
ところで、今まで学んできましたことを踏まえて考えますと、安息日に関する、この第四戒は、神さまとの関係において神の創造を覚え賛美し、なおかつエジプトの隷属からの救いを神との関係において感謝し、覚えるだけに留まらず、共に生活する家族や使用人、その土地に寄留している人々、そして家畜、さらに被造物世界に対する奉仕も含めての戒めであることを改めて知らされるのです。つまり、この第四戒は、ただ単に神さまと私たちの関係に留まらず、この後の人間同士を規定する第五戒との間をつなぐ「橋渡しのような役割を果たす戒め」なのではないかと言われます。
ユージン・ピーターソンは、「安息日の遵守は他者への基本的な優しさの問題なのだ」と語っていましたが、神さまの救いは私自身の救いと幸いで完結するのではなく、それは隣人の救いと祝福、地球に対する、宇宙に対する優しさへと広がる。ちょうどパウロがローマ書の中で「被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます」(ローマ8:19)と語る通りです。
Ⅳ.安息日を生きる―「信仰告白」から
カンバーランド長老教会は、「信仰告白」で次のように告白しています。
「創造主なる神は、一週間のうちの一日を神の本質と御業を特に覚える日として定め、世の初めからキリストの復活に至るまでは、安息日として知られている週の七日目が主の日であった。キリストの復活の後は、キリスト者は週の第一日を主の日として祝うのである。」(信仰告白6.23)
使徒言行録20章7節に、「週の初めの日、私たちがパンを裂くために集まっていると」とありますように、キリストの教会は、土曜日に守っていた安息日に代えて、キリストの復活を記念して日曜日を「主日」として守って来ました。安息日を否定しているのではありません。そうではなく安息日の祝福の成就として主の日に集まったのです。安息日は過去の恵みを覚えることでしたが、主の日は、それとともに世界と人間の究極的な解放を約束する将来を望み見る日と言えるでしょう。
「信仰告白」はさらに次のように告白します。
「主の日にふさわしい活動には、礼拝、学び、良き行いの実践、その他人々を新しくするいろいろな活動がある。主の日を正しく守ることは、その他の全ての日々の生活の質を豊かにする。」(信仰告白6.24)
私たちは、主イエスの復活以降、新しい安息日である主の日を守ることを通して、神さまの創造の業を賛美し、救いをいただいた私たちが、その祝福の源として生かされていることを覚え、創造の恵み救いの恵みが私たちを通して、隣人と世界へと広がることを求めて歩んでいきたいと願います。
お祈りします。