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主日共同の礼拝説教

父と母を敬いなさい―第五戒

松本雅弘牧師
出エジプト記20章12節
エフェソ書6章1節―4節
2021年10月31日

Ⅰ.「親ガチャ」の不平等と第五戒

「親は選べず、親次第で人生が決まってしまう」。そんな人生観を表す「親ガチャ」が巷で、若者たちの間で話題になっている中、「あなたの父と母を敬いなさい」という第五戒は、どのような戒めなのかを考えてみたいと思います。そのために今日は、パウロが第五戒を説き明かして語ったエフェソ書の御言葉に耳を傾けてみましょう。

Ⅱ.縦と横との関係の中で成長する私たち

先日の説教でマルチン・ブーバーの『我と汝(私とあなた)』という話をさせていただきました。人間を取り巻く関係には大きく分けて2つあって、「私とあなたという人格的な関係」と「私とそれという、モノとの関係」です。確かに人間はモノがなければ生きていけないのですが、同時にモノに恵まれて生きていたとしても、「私とあなた」という人格的な関係がなければ人生は味気ないものになってしまう。親と子の関係も「私とあなたの関係」ですし、そうした中、「究極のあなた」という存在が、造り主なる神さまです。
人間は、元々、神のかたちに似せて造られていますから、他の人格との触れ合いを通し、真に人間らしく生きることができます。また「究極のあなた」として私たちと向き合ってくださる主なる神さまを礼拝し、御言葉と祈りを通してそのお方と交わりの中で人として成長させられます。言い換えれば、「私たち人はどこで育つかと言えば、関係の中で育つ/縦と横との関係の中で成長する」というのが聖書の基本的理解です。
さらに聖書は、主なる神さまが私たちに向かって、ご自身の方から心を開いてくださるお方であることを繰り返し証ししています。「あなたは、どこにいるのか」と神さまの方から私たちとの関係を求めておられるのに、人間は罪を犯した瞬間から、神から身を隠すこと、さらに互いに隠し合うことを始めたのです。「関係の中で育ち、縦と横との関係の中で成長する」はずの人間が、神から、またお互い同士から自分を隠す者となったのです。
しかし神さまはそんな人間を憐れみ、「あなたはどこにいるのか」と、ご自身の側から関係回復へと招きの言葉をかけてくださった。私たちはその招きにどう応答するかが問われています。「あなたはどこにいるのか」との、神からの招きの言葉をしっかりと聴くことから始まる。その招きの言葉に気づいて、振り返った時に、放蕩息子の父親のように、神は私たちを受け入れ、愛してくださる。そのお方との関係の中で、「あなたは大切だ」という愛の語りかけを聞き続ける。すると次第に自分の大切さに気付いていく。そして隣人もまた神に愛されている大切な存在であることを受けとめ直す私に変えられていくわけです。

Ⅲ.「親ガチャ」の呪縛から解放されるために―主にあって関係を受け取り直す

ここでパウロは、「主にあって、~しなさい」と語り、「子どもであれば親を、親であれば子を、主にあって受け取りなおす」ということを勧めているということです。
私は親を選ぶことができません。生まれた時に、すでにそこに私の親がいたわけです。ですから、何故、自分はこの親の許に生まれてきたのか、と誰もが一度はそう考えてしまいます。そうした中パウロは、「父と母を敬いなさい」という第五戒を指して「これは第一の戒めで、次の約束を伴います」と説明しています。
ご存じのように、モーセの十戒は、第一戒から第四戒まで「神を愛しなさい」という内容の戒めです。これに対し今日の第五戒から最後の第十戒まで「人との関係における戒め/隣人を愛しなさい」という戒めとなります。そう考えると、現実の人間関係の中で最初に適用すべき戒めが、今日の第五戒、「父と母を敬え」ということになります。だからパウロはここで、「これは第一の戒めで」と表現するのです。
いかがでしょう。信仰生活にとって大切なことの一つは、御言葉を実生活に適用する、御言葉に生きることです。ある人は、御言葉を実生活に適用しないということは、ちょうど机の上で泳ぎを習うようなものだ、と語っていました。勉強机に向かい様々な書物を読んでも、実際に水の中に入り学んだことを実践しなければ、水泳を身につけることはできません。同様に聖書から「信仰とは何か」を一生懸命学び、メモを取りつつ熱心に説教を聴いたとしても、それを実生活に適用しなければ、御言葉を生きてみなければ、喜びも確信も得られません。
信仰の中心は神さまとの生きた交わりです。キリストの十字架のゆえ赦されているという喜びと確信です。そうした神さまとの関係が確かなものとなるために、御言葉を実生活に適用する、御言葉に生きる。で、その最初の適用の場が「親との関係だ」とパウロはここでそう語っているわけなのです。
では何故、最初に親との関係で御言葉を適用していくのでしょう?それは人間にとって一番近い存在が父と母、最初の人間関係が実の親との関係だからです。生れた時、真っ先に関わりを持つのは父と母です。いや、生まれる前から父と母と関わりをもって母の胎内において養われてきます。したがって一番近い隣人こそ父であり母なのです。
私たちの人間関係は子どもの頃からの親子関係の中に基本的パターンが隠されていると言われます。人間はされたようにするものです。だから良きにつけ悪しきにつけ連鎖が起こります。父母との関係で良いものをたくさん受けるとともに、親子関係は極めて緊密ですから、残念ながら多くの傷をも受けることがある。
最初のボタンの掛け違いが全てに影響を与えるように、最初の人間関係である親との関係で躓づくと後々まで尾を引き、場合によっては連鎖の中に絡めとられてしまう。ですから、まず自分と親との関係に御言葉を適用していかなければ悪循環を脱することが難しくなるからです。
では具体的にどう適用するのでしょう?1節に「主にあって」とあるように、「主にあって」両親を見ていくのです。愛することの難しい両親かもしれません。でも、その両親の姿はイエスさまの瞳にどう映っているのかを考えるのです。
私たちも、自分を受け入れることが出来て来たのは、キリストの十字架があり、それ程までに神が、この私を愛し重んじてくださったことを知ったからでしょう。そうだとしたら、一番身近な隣人である両親をも愛し、重んじる道が開かれているのではないでしょうか。すると必ず不思議なことが起こります。親を赦すことが、突き詰めると私自身を赦し、私自身を受け入れ、愛することに再び繋がっていくことに気づかされるのです。
少し前の5章28節でパウロは、「妻を愛することは、自分自身を大切にする」ことに繋がると説いている。これは親子関係においても真実な言葉です。

Ⅳ.私たちの責任

先日の「道の駅」で、長年里親として厳しい境遇に生まれて来た子どもたちとその家庭に仕える清水三和子姉のお話しを聞かせていただき、本当に考えさせられ、またチャレンジを受けたことです。また一方で、年を重ねる中で、若い人たちの生活から外されてしまうという、「親ガチャ」の逆バージョンの問題も経験することです。
私たち夫婦も経験しましたが、高齢になった両親をどのように支えていくのか。そのことをきっかけに、今日のテーマである親子の関係は勿論、夫婦や兄弟との関係、さらに自分自身の時間の使い方など、様々なことを考えさせられ、実際に、軌道修正を迫られたこともありました。そのような時に、教会での交わりの支えは本当に大きかったと思います。そして同時に、私たちにとっては、社会的な助けがどうしても必要となっていくことに気づかされました。
社会がご高齢の方たちを重んじること、またそうした社会の仕組みづくりに関わることも含め、それは神に重んじられる経験をしている私たちクリスチャンが、まず身近な人間関係から始めていかなければならないことのように思いますし、それが、この世に生かされている私たち教会、またクリスチャンとしての大切な責任のように思うのです。
今日は衆議院選挙の日です。私たちの信仰告白は、「人々は、与えられている機会を用いて、この世の政治に参加し、特に選挙権を行使する義務がある。」(6.28)と告白します。
私たち個々人が、この十戒に現わされた神さまの御心を受けとめ、すでに神さまに大切にされている者として、まず一番身近な親子の関係で、互いを大切にし合うことを祈り求めていきましょう。神の助けをいただきながら実践できるように。そしてこの社会にあって私たち教会が、隣人を大切にする祝福を届ける器として、この社会に貢献できますよう祈り求めていきたいと願います。
お祈りします。