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主日共同の礼拝説教

主がしてくださったことを知らせる―信仰の基本を確認する①

松本雅弘牧師
マルコによる福音書5章1-20節
ペトロの手紙一3章15節
2022年1月2日

Ⅰ.はじめに

今日は、今年最初の主の日の礼拝です。2022年は、「主にあって一つとなる」というテーマで、ヨハネ福音書17章23節を主題聖句として掲げながら、歩んでいきたいと思いますが、さて今日から、「信仰生活の5つの基本」を確認するところから新しい年を始めたいと思います。第1回目は、「キリストを知り、キリストを伝える」、言い換えれば「証しの生活」についてです。
私自身、「証しの生活」について意識し始めたきっかけは、ちょうど大学1年生になる春休みでした。忘れることのできない、2つの大切な経験をしました。一つは、チラシ配りでたまたま幼馴染に配り、彼から「もしかして松本お前、こんなところで何してるの?」と言われ、急に恥ずかしく思い、またそう反応した自分自身に驚いた経験です。そしてもう一つは、進学を契機に教会の近くに一人暮らしをしようとしたところ、ある先生から今日の聖書箇所を示され、私自身の逃げの姿勢を指摘された経験です。

Ⅱ.ゲラサの悪魔付きの男

今日の箇所で、主イエスにお供を願った人は、正気になる前は、地元「ゲラサ人の地方」において、思い出すのも嫌になるような、彼としては本当に恥ずかしく、消してしまいたくなるような生活をしていました。その彼をご覧になって主イエスは、「名は何と言うのか」と問いかけておられます。
ご存じのように聖書は、名前がその人の本質と深く関わりがあることを教えています。ですから、この投げ換えは、彼からすれば、「あなたは誰なのか」と問いかけられたように感じたのではないでしょうか。すると彼は、「名はレギオン。我々は大勢だから」と答えたのです。
『「よい子」という病』という本の中に、親や学校の先生や、周囲の期待に一生懸命こたえるように、言わば「よい子」として生きようとした結果、心を病み、自分が分からなくなってしまった若者たちの切実な証言が綴られています。私は、今日の箇所に登場するゲラサの悪魔付きの男の姿が、その本に出て来る若者たちと重なって見えるのです。5節の「石で自分の体を傷つけていた」とは、一種の自傷行為でしょう。本の中にもそうした若者が何人もいました。
私たちが、周囲の期待に応え「よい子」であり続けようとするためには、それなりの能力や賜物の必要となります。ある意味、ゲラサの悪魔付きの男も足枷や鎖につないでも、それを砕き引きちぎってしまうほどの怪力の持ち主でした。ただ、自分をさらけ出したら、嫌われるかもしれない。そうした恐れが心にありますから、本当の自分を出すことができない。そのように周りの人が喜ぶように人の顔色を伺って生きるのは、かなり無理のある生き方でしょう。仮に、周囲のそうした期待、要求、あるいは役割を演じて生きるということは、正にレギオンといわれるほどに、多くの名前や役割を背負うことになりますから、その結果、本当の自分が分らなくなってしまう。「石で自分の体を傷つけ」ながら、自分自身を確認しようとしていた。主イエスは、その彼を見て、「名は何と言うか/あなたは一体、誰なのか」と問われたのです。そして彼を虜にしていた悪霊から解放されました。その結果、彼は落ち着きを取り戻したのです。
カンバーランド長老教会の「礼拝指針」に、「礼拝するとは人間が人間になることである」とあり、聖書で言うところの救いとは神さまが造られた本来の私を取り戻していくことだと告白されています。つまりクリスチャンになるということは特別な人間になることではなく、人間らしい人間になることを意味します。神さまが願う、私に成っていくのです。この男性も以前は裸で、狂ったように騒いでいたのです。その彼が、主イエスの働きかけの中で我に返る経験をした。自らの人生の神さまを迎えることになったのです。
私たちの人生に、神さまとの縦の関係がない場合、私たちは自分が誰なのか分からなくなります。そのため、一生懸命、横と比較し合うのですが、そこからは何も生まれません。自分の位置を見出すことができない。自分が誰だか決して分からない。よくて優越感、場合によっては劣等感が生れるだけでしょう。
しかし人生に神さまとの関係をいただき初めてこの世界で、この歴史において、私しか立つことのできない1点を見つけることができる。それが生きる上で何よりも大切だ、と聖書は教えています。ですから、9節の「名は何と言うか/あなたは誰なのか」という問いかけは、正に「神との関係の中で自分自身を見つけなさい」という招きの言葉のように聞こえてきます。

Ⅲ.「証しの生活」へのチャレンジ

さて、悪霊を追い出していただいた後の彼は、「服を着、正気になって座って」いました。ということは裸で騒いでいたわけです。この村で醜態をさらし周囲の人たちに嫌がられる存在だった。そうしたことを考えるだけでも恥ずかしくて仕方がなかった。どこかに行ってしまいたいと思ったでしょう。彼はそうした古い自分に別れを告げ、再出発をするために主イエスにお供を申し出ました。
ところが主イエスは、それを許さなかった。そして、最初にご紹介した、19節の御言葉、「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」新共同訳聖書では、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせない」。つまり主イエスは、彼を実家に戻し、地元で証しすることを求めた。「証しの生活」へのチャレンジをなさったのです。
これを受けた彼はどうしたでしょう?20節。「そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」とあります。その結果、「人々はみな驚いた」と、福音書は、彼の「証しの生活」の結末をそのように記録しています。彼は主イエスの召しに応えて生きていったのです。

Ⅳ.まず祈るところから始めよう

さて、皆さんは、いかがでしょうか。今日は「証しの生活」がテーマです。私たちが、神さまを知り、神さまに愛されている恵みを知る時に、必ず、その神さまのこと、神さまの愛を、周囲の人たちにお知らせしたいと思うようになっていくのではないでしょうか。
考えてみれば、ここに居るほとんどの方たちは、生れた時から明確に信仰を持って生まれた人は一人もいません。必ず、誰か他の人から神さまのことを知らされたのです。そのようにバトン・リレーのようにして、福音が、今、私たちの許に届けられたのです。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、次のように語っています。
「…口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。聖書には、『主を信じる者は、誰も恥を受けることがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシャ人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者は皆、救われる』のです。(※次です)それでは、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができるでしょう。『なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は』と書いてあるとおりです。」(ローマ10:9-15)
今日、「神さまへのおささげカード」が配布されましたが、その裏のページに、今年、私がぜひイエスさまのことをお伝えしたい、家族や友人の名前を記入する欄があります。主イエスが、ゲラサの悪魔付きの男に、「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」と求められたように、今年、主イエスは、私たちに対しても、同じようなチャレンジをしておられるのではないでしょうか。
「いや、そんなことできません」とおっしゃる方もあるかもしれませんが、先ず、そのカードに名前を書いて、祈るところから始めることはいかがでしょうか。
今年は、2年ぶりに4月と10月の春秋の歓迎礼拝を再開したいと願っています。先ずは、その礼拝に、私が声をかけ勇気が与えられるように。そのように祈るところからまず始めていきたいと思うのです。
「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」
お祈りいたします。