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主日共同の礼拝説教

礼拝を通して神に仕える―信仰の基本を確認する②

松本雅弘牧師
詩編95編1-7節
ローマの信徒への手紙12章1-2節
2022年1月9日

Ⅰ.救いの目的としての礼拝

年の初めに、今年も「神さまへのおささげカード」を配らせていただきました。例年ですと、第2主日の後に、新年地区祈祷会が行われ、成人のお祝いをした方たちも含め、このカードを用いながら、新年の抱負を語り合い、共に祈りを捧げる交わりを持っていますが、今年もコロナの関係で、行うことが出来ません。
その代わりと言っては何ですが、先週から、信仰生活の基本を一つひとつ確認しながら、新しい年を始めています。もしよろしければ、毎週、信仰生活の基本を一つひとつお話しますので、説教をお聴きになった後、このカードを使って、今年取り組んでみようと思わされたことがありましたら、この欄に記入していただいたらどうでしょう。そして、それぞれの小グループの交わりなどで、書いたことを分かち合いながら、新しい年を始めることが出来ればと思います。
さて、今日はその2回目、礼拝についてご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.献身、価値観が整えられる場と時としての礼拝

礼拝を考える上で、今日、選んだ個所の一つがローマの信徒への手紙12章1節と2節です。ここから礼拝について3つのことをお話したいと思います。
ここでパウロは、「自分自身を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げることこそが、礼拝なのだ」と語っています。つまり礼拝とは献身であるというのが第1のポイントです。
ところで、礼拝が礼拝として成り立つために、最低、2つのことが必要だと言われます。1つは目に見ることはできませんが、そこに生ける神さまが居てくださるということ。もう1つは、その神さまを礼拝する人間がその場に居合わせること。この2つがあって初めて礼拝が礼拝として成り立つと言われます。ですから、目に見ることはできませんが、インマヌエルなるお方が、聖霊においてこの礼拝に臨在しておられることを心の目をもってしっかりと見ていく。私たちが感じようが感じまいが、今ここに神さまが居てくださり、そのお方を礼拝する私たちがいることで、この礼拝は成り立っているわけなのです。
賛美をする時に単に歌を歌っているのではなく、そのお方に心を向けて賛美します。聖書の言葉を聞く時に、そのお方からの語りかけとして聴くことです。そして、「礼拝は献身である」と言う時に心に浮かぶのは、受胎告知を受けたあのマリアが、「私は主の仕え女です。お言葉通り、この身になりますように」と言って、自らを主の語られる御言葉に委ねて行った姿、それこそが献身の姿なのではないでしょうか。
礼拝についての2つ目のポイントは、礼拝は私たちの価値観を神の国の価値観へと造り変える時と場であるということです。
ご存じのように、礼拝の中心は御言葉です。礼拝において、聖書を通して語られる神さまに心を開きます。その結果、何が起こるかと言えば、「心が新たにされる」と、今日の2節で語られています。
この「心」という言葉は、「ヌース」というギリシャ語で、英語の聖書では「マインド」と訳されています。2節を見ますと、神を礼拝することで、「心/マインド」が「新しくされ自分が造り変えられていく」、具体的にどのような変化が起こるかと言えば、「何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになる」。一言で言うならば、永遠のベストセラーと呼ばれる聖書の価値観によって私たち自身が導かれていく、というのです。
昨年の12月28日の「天声人語」に「世の中には二種類の人間がいる。『カラマーゾフの兄弟』を読破したことのある人と、読破したことのない人だ」という村上春樹の言葉が引用されていました。新しい年に必ず読みたい本の一つが、『カラマーゾフの兄弟』でしたので、村上春樹の言葉を読んだ時に、ドキッとしましたが、その言葉を読みながら心に浮かんだのは、「この世界には縦軸を持つ人と持たない人という、もう一つの分類もあるのではないか」と思わされるのです。
縦軸を持たない人は、横との比べ合いで生きる人でしょう。人と比べて上か下かが大きな問題となり、少しでも上だったら安心し幸せを感じますが、逆に下だったら、自分には何もないと落ち込んだり、他人の成功を妬んだりしてしまう。場合によっては、同僚や友達の欠点を見つけては「ちっぽけな勝利感」に浸るような貧しい生き方でしょう。
それに対し、縦軸を持つ者は、「上を向く生き方」、神さまを礼拝する生き方です。私の存在自体を喜んでおられる神さまに、意識して心を向けて生きる生き方でしょう。
心を上げてそのお方を礼拝するとき、私をご覧になって微笑んで、喜んでおられる神さまを知る。そうです。礼拝とは「さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中での『日向ぼっこ』」ですから。今まで何をもってしても暖まらなかった、芯まで冷えていた心が次第に暖まる経験をする。
お金や物、仕事上の成功や、周囲の人たちからの評価、あるいは様々な楽しみを追いかけながら、それでも癒されなかった心の渇きを神さまの愛は必ず癒してくださる。つまり、私を縛っているこの世の変わりやすい価値観から解き放ち、本当の意味での幸いに導く、神さまの価値観へと私たちの価値観を新しくする時と場が礼拝なのです。

Ⅲ.生活にリズムをもたらす礼拝

そして最後3つ目ですが、礼拝とは私たちの生活にリズムをもたらすものです。
カール・バルトという神学者がいました。よく葬儀の時にお話しするのですが、彼は私たちの人生を「中断される人生」と呼びました。人が召される時、必ず何かをやり残して召されていく。仕事においても、家族のことついても、友人関係でも、趣味においてもそうです。誰であっても、何かをやり残して御許に帰っていく。
では、そんな私たちの人生は何も完成できない、途中で放り出すような「中途半端な人生」なのでしょうか。決してそうではないと語るのです。何故なら、私たちの信じる神さまは、「信仰の創始者であり完成者」だから。神さまは私たちをそれぞれの人生に送り出し、なおかつ、私たちの人生を完成してくださるお方だからです。
これを礼拝との関連で見るならば、私たちが日曜日の礼拝に集うためには、どうしても何かを途中で切り上げなければ集うことは難しいでしょう。あるいはそのために、色々な段取りが必要となります。でも礼拝を守るためのそうした「週ごとの小さな中断」を繰り返す中で、いつか訪れる「大いなる中断」としての「天国への引っ越し」の備えを、私たちはさせていただくのではないでしょうか。そのような意味で、主の日ごとの礼拝は、天をめざす旅人である私たちの生活にリズムを与えるものとなるのです。

Ⅳ.礼拝とは共に/一緒に捧げるもの

最後に詩編95編6節を読みます時、2つのことが心にとまります。1つは、私たち人間の生きる目的/存在理由です。私たち人間は、神によって造られた、それ故に、造り主なる神の御前に跪こう、つまり礼拝する者として生きよう、ということ。そしてもう1つは、ここで詩編記者は、「さあ」と呼びかけています。「さあ、みな共に、ひれ伏し、身をかがめよう。私たちを造られた方、主の前にひざまずいて、共に礼拝しようではないか」と。自分ひとりではなく「共に・一緒に」ということ。私たちが礼拝を、「共同の礼拝」と呼ぶ理由が、こうしたところにあります。
コロナ感染症が収まらない中、今も引き続き、オンラインの礼拝が中心となっています。そうした中、自分自身を見ていると、私のなかでの礼拝の優先順位がどんどん下がっていく危うさを感じることがあります。ともすると楽な方、楽な方へと動いてしまう。そんな危うさを経験します。しかし聖書が教える本来の礼拝とは、個人で捧げるものではなく、キリストの体なる教会として、共に集い、共に捧げるのが礼拝であることを、まず心に留めたいと思うのです。
現在、新種のオミクロン株の感染の勢いが止まりません。そのような意味でどうしてもオンラインの礼拝を中心にせざるをえない。そのような場合でも、ぜひ、自分一人で捧げる個人の礼拝ではなく、あくまでも主日共同の礼拝の一部として、意識的に捧げることが大切なのではないかと思うのです。
私たちカンバーランド長老教会の「礼拝指針」には、この点について次のような告白があります。最後にそれを紹介してお話を締めくくりたいと思います。
「神はイエス・キリストによって一人一人を贖い、キリストのからだである教会の構成員として、神ご自身との関係、そして人間同志の関係に入れられる。であるから、キリスト教の礼拝は、何よりも共同的なものと理解される。つまり、個人は信仰共同体の肢体として自己の真の意味を見いだすのであり、個人の礼拝は共同体の信仰と賛美と切り離されて存在するのではない、ということである。」(「礼拝指針」「Ⅰ共同の礼拝」)
お祈りいたします。