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主日共同の礼拝説教

御言葉と祈りに生きる―信仰の基本を確認する③

松本雅弘牧師
ルカによる福音書10章25-42節
2022年1月16日

Ⅰ.はじめに

今日、お読みしました聖書の箇所は大きく分けて2つの部分から成り立っています。前半は37節までのところで、いわゆる「善いサマリア人の譬え話」、そして後半の38節からは「マルタとマリアの話」、どちらも聖書の中では大変有名なお話です。
今日は、この2つの箇所から「御言葉と祈りに生きる」、すなわち「聖書と祈り」について、御一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.愛の実践-善いサマリア人に見る真実の愛

では初めに「善いサマリア人の譬え話」に注目しましょう。25節から譬え話が語られた経緯がでてきます。注目すべきは、律法の専門家が語った、「私の隣人とは誰ですか」という問いかけの言葉です。これに対する答えとして主イエスによって語られたのが「善いサマリア人の譬え」でした。道を歩いていた旅人が強盗に襲われ、身包み剥ぎ取られてしまった。その上、瀕死の重傷を負わされ道端に捨てられてしまった。そこを最初に通りかかったのが祭司で、彼は道の「反対側」を通り過ぎていきました。次に通ったレビ人も同様だったのです。
そうした中、次に登場したのがサマリア人でした。彼は旅人を発見すると、躊躇なくオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をし、家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱し、数日の滞在費を先払いしました。
当時、サマリア人は、ユダヤ人と征服者であったアッシリア人とのあいだに生まれた人々で、ユダヤ教の正統的な在り方から外れた存在と見なされ、民族的、宗教的理由から軽蔑と差別の対象でした。そうした差別はサマリア人の心を卑屈にし、頑なにし、敵意を植え付けたに違いありません。ところが、このサマリア人は敵意や差別の壁を乗り越え、倒れている人の必要に応えようと努めたのです。
たぶんこの時のサマリア人にも、通り過ぎた祭司やレビ人同様、なすべき仕事があり、決して「暇人」だったわけではなかったでしょう。でも、全て自分のことを後回しにし、旅人と面倒なかかわりを持ち、時間や金銭を捧げて、仕える業に専念した。もし訊かれたら、「死ぬ思いをしている人を前にしたのだから、人間として当然のことをしたに過ぎない」と答えたかもしれません。彼は自分に出来る限りのことをしたのです。

Ⅲ.イエスさまと律法の専門家の問題意識の違い

ところで、この時の律法の専門家の心の内側に思い描いていた絵を想像するならば、たぶん先ず彼自身が真ん中にいて、その周りを囲むように人々がいる。そうした上で、周囲にいる人々を品定めするように、「誰が自分の隣人として、愛されるにふさわしいか」を自らの心に問いかけている。そのような絵を彼は心の中に思い描いていたのではないでしょうか。これに対して主イエスは、当然、「隣人の枠外」に居たサマリア人の方が敵対関係にあったユダヤ人に対して、その枠を乗り越えて助けようとしたというのです。
考えてみれば、この時、傷ついた旅人には助けてくれる隣人がどうしても必要でした。ですから主イエスは、「誰が私の隣人か」ではなく、「その人の隣人になったのは誰か」を問題になさった。自分の方で枠を設けるのではありません。一人の人間として同じ地平に立ち、今、助けが必要な人の隣人になる、そしてできる限りのことをする。それが隣人を愛することだと言われるのです。
さて、この譬え話の最後に、主イエスは律法の専門家に向かって語りました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」そしてこれは律法の専門家だけでなく、イエスさまを信じていこうとしている私たちにも投げかけられているチャレンジの言葉でもあります。

Ⅳ.主イエスの足元に座って―御言葉と祈りに生きる

さて、この言葉を前に私たちは、「こういう隣人愛にどうしたら生きることができるのだろうか」と考えてしまうのではないでしょうか。確かに、「自分は向こう側を通り過ぎるような祭司やレビ人にはなりたくない」と思いますが、一方で自分の現実を見た時に、「善いサマリア人にはなれない」という限界を知らされるからです。
このような私たちに対して、この福音書を記したルカは、この譬えの直後に「マルタとマリアの話」を取り上げています。私は、ここにヒントが隠されているように思うのです。
主イエスは、この譬え話をお語りになった後、弟子たちを連れてマルタとマリアの姉妹の家を訪問されました。一行を迎えることになったマルタとマリア姉妹は、一生懸命もてなすのですが、その最中、一緒にいたはずの妹マリアが台所から姿を消していることにマルタが気づいたのです。アレっと思って、リビングを覗くと、何と主イエスの膝元に座ってメッセージに聞き入っている。そのマリアの姿が目に飛び込んできたのです。その瞬間、マルタは感情が爆発し、「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と主イエスに食って掛かるということが起こりました。くつろぐ雰囲気は一気になくなり、主イエスもその場にいた人たちも居たたまれない思いにさせられたのではないでしょうか。
さて、こうしたマルタに対して主は優しく語りかけられます。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」ここで主イエスは「マリアは良い方を選んだ」と、神が私たちに「選択の自由」を与えてくださっていることに気づかせておられるのではないでしょうか。
この時のマルタに当てはめて考えるのならば、感情に任せ、イライラした状態で主イエスに八つ当たりするのか、それとも一呼吸おいて、一旦台所での働きを中断し、妹や他の弟子たちと一緒に主イエスの足もとに座り、御言葉に聞き入ることを選択することだって出来たはずでしょう。
実は、このマリアが選択し、その選択のことを主イエスが「必要なことは一つ」、別の聖書では「無くてはならないただ一つのこと」と評価した生き方こそ、今日取り上げている「御言葉と祈りに生きる」という信仰生活の基本の生き方なのではないでしょうか。
「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」とありますように、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの命令に従う前に、まず神の愛を深く味わうことが本当に大切なのです。何故なら、「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」。しかし、私たちの心が冷え切っていたら、たとえやるべきことがわかっていたとしても、「向こう側を通り過ぎる」生き方しかできないのではないでしょうか。ですから必要なことはまず、神さまの愛で心を充電していただくことです。マリアのように主イエスの足元に座り、恵みの御言葉をいただくことなのです。
もう一度、「善いサマリア人の譬え話」に戻りたいと思います。宗教改革者マルチン・ルターは、傷つき、瀕死の重傷を負って横たわっている旅人こそ、私たちなのだと語っています。確かに私たちは、「隣人を愛しなさい」と言われても、気づかないふりをして道の反対側を通り過ぎてしまい、「愛の人になりたい。自己中心の殻を破り、分け隔てなく人を愛する私になりたい」という思いを抱きながらも、どうしてよいか分からない。そのような意味で、自己愛の塊/人を愛することが出来ない病にかかり、正にルターが言うように、私たちこそが惨めな姿で横たわっている旅人の姿と重なって来るようにも思うのです。しかし、この旅人を見捨てない人がいた。それがサマリア人です。ルターは、このサマリア人こそが、主イエスなのだ、と語るのです。
ところで、福音書記者ルカは、神、もしくは主イエスにしか使わない「憐れむ」という動詞をサマリア人にも使っています。これは、「内臓がギュッとよじれるほどの痛みを感じる思い」という意味で、相手の苦しみを自分の内にあるものとして感じてしまうという意味があります。主イエスこそが、愛に生き得ないで苦しむ私たちに近づき、その傷を治療し、再び立ち上がれるように、つまり、愛に生きる者へと変えてくださるお方なのです。
御言葉と祈りに生きるという聖書と祈りを通して神さまと交わる生活の目標は、聖書に精通するとか、知識を増やすということではありません。それを通し神さまの愛を深く経験し、神さましか癒すことのできない渇きを癒していただく。神の愛に留まり、心に芯まで温めていただく。その結果、「行って、あなたも同じようにしなさい」と語られるキリストに倣って生きる者へと少しずつ変えていただくのです。
新しい年、聖書と祈りを通して、魂をキリストの愛で充電していただき、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの命令に従う者として生かされて行きたいと願います。
お祈りします。