和田一郎副牧師
詩編29編1-11節
マルコによる福音書1章21-28節
2022年1月23日
Ⅰ.教会歴にそった説教
私は昨年から教会歴に沿って聖書箇所を選んでお話をしています。教会歴というのはキリスト教会の暦のことです。教会には三つの大きな年間行事「クリスマス」「イースター」「ペンテコステ」という三大節があります。イエス様がお生れになったクリスマスから、イエス様の生涯を辿ってイースター、ペンテコステ、使徒の働きが続きますが、聖書の歴史を一年でたどって歩むように教会歴があります。クリスマスから福音書を扱います。続いてペンテコステの後は、使徒たちの手紙を中心に説教をして、また秋になりましたら旧約聖書にもどり、クリスマスへと繰り返していくことになります。今日、与えられている御言葉は、イエス様が地上で宣教の働きを始められた箇所です。
Ⅱ.イエス・キリストの宣教のはじまり
21節に「一行はカファルナウムに着いた」とあります。この「一行」というのは、前の聖書箇所で、4人の漁師たちがイエス様の最初の弟子となったことが語られていて、その弟子たちとイエス様の一行のことです。マルコによる福音書は、イエス様のお生れになった出来事は記されていません。イエス様の宣教の働きが始まったところから書かれています。洗礼者ヨハネによって洗礼を受けて、四十日間の荒れ野での試練を受けて、それからガリラヤ地方に行かれて宣教の働きをスタートしたと簡略に書かれて始まります。21節に書かれているカファルナウムは、イエス様一行の宣教の拠点となるガリラヤ湖近くにある町の名前です。安息日のある日、イエス様は会堂に入って行かれました。
安息日に、会堂ではユダヤ教の礼拝が守られていて、律法学者と呼ばれる人たちの旧約聖書についての「教え」が語られます。そのような会堂にイエス様は、入って行かれた。そして、そのイエス様の教えに「人々は、その教えに驚いた」とあります。イエス様の教えを聞いた人々はびっくりしたのです。律法学者とは違う教えだったからです。
律法の学者たちは、律法について学び専門的な知識を持っていました。その知識を土台として、律法を守った生活をしなさいと教えていたのです。日常生活の中で、「このことは律法ではどう決められていただろうか?」と迷うことがあります。そのような時に「律法はこう教えているから、こうしなさい」と教えるのが律法学者でした。ところがイエス様の教えはまったく違うものでした。聞いた者たちは「権威ある者のように教えている」と感じたのです。そこにいた悪霊も「するとすぐに、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と、叫んだのです。汚れた霊にとりつかれた男が叫び出す、と聞くと、私たちは異常な人が、暴れ出した情景を想像するでしょう。しかし当時「汚れた霊」というのは、さまざまな病気を引き起こすものと考えられていました。現在は医学が進んで病気を汚れた霊だと考えることはなくなりました。しかし、同時に神様の権威に対して、「構わないでくれ」と敵意をもって叫ぶ心が、私たちの中にあるのも事実です。自己中心的な心が「構わないでくれ」と叫ぶのです。その「汚れた霊」に取りつかれる時、私たちは神を中心として生きるのではなく、自分や世の中の常識が、自分の中心となり、神の権威に対して「構わないでくれ」と心を閉ざすのです。
イエス様は汚れた霊に向かって「黙れ、この人から出て行け」と叱りつけると、その霊は出て行きました。これを見ていた人々は、皆驚いたといいます。この出来事が発端となって、イエス様の評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広がり、こうしてイエス様の宣教は始まったのです。イエス様の宣教。それは人々を驚かせる出来事の連続でした。あの山上の説教にも、五千人に魚とパンの食事を与えた出来事でも、多くの人々がイエス様のもとに集まってきたことが聖書には記されています。どうして、そんなに、多くの人々が集まったのか、それはイエス様の教えが、常識を覆すように逆説的で、新しい驚きがあり、なおかつ権威があったからです。「権威がある」というのは、その教えを説く実態そのものから出て来る言葉だったからです。
それまでの教えでは、救われることはないとされてきた人々にも「救い」がある。病気の人、律法を守る余裕などない貧しい人にも、罪人と言われ嫌われている人にも、救いがあるという、新しい教えと権威があったのです。
Ⅲ.親鸞の教え
日本の歴史の中にも、イエス様の教えと響き合う、驚くべき新しい教えがありました。私は牧師になるために東京基督教大学で学んだのですが、大和昌平先生という牧師でありながら佛教大学で学位ととられた先生の授業で『歎異抄』を学びました。最近この書が本願寺の中で、ずっと隠されていたと聞いて驚きました。親鸞が亡くなった後、その教えを誤解したり、捻じ曲げて自分勝手な解釈で広める人が多かった。それを嘆いた弟子が、親鸞の教えを正しく伝える為に分かりやすく書かれた書が『歎異抄』です。それでもこの書を捻じ曲げて理解する人が多くて封印されてしまった。それが明治時代に開封されると、日本にとどまらず海外でも話題となり現在も読まれているのです。親鸞の教えを捻じ曲げてしまう要因は、『歎異抄』の逆説的な表現と衝撃的な教えにあったようです。
代表的な言葉は「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」という言葉です。善人でさえ救われるのですから、ましてや悪人が救いを果たすことはいうまでもありません。そして、阿弥陀仏の願いは悪人が救われることなのだから、自分の力ではなくて他力に頼ろうとする悪人こそ、まさに救われる。という教えです。ですから、イエス様が言われた「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ福音書9:12-13節)と言われた「新しい教え」と重なるのです。そして親鸞の、文字も読めない貧しい人、悪人も含めて、どのような人であれ念仏ひとつで救われるという「新しい教え」は、当時の仏教界から危険だとされて越後に追放されましたが、それも、イエス様が当時の律法学者や祭司たちから危険だとされ裁判にかけられた姿と重なります。
大和先生は『歎異抄』と『聖書』の教えが響き合うものと、明らかに違う響きを聞き分けることが大事だと教えてくださいました。
イエス様は、医者を必要とするのは病人であると教えました(マルコ2:17)。私たちは罪という病をもった病人です。イエス様という病気を治してくださる医者が必要です。『歎異抄』の教えも医者と病人で譬えるならば、人は誰もが「死の恐れ」と「自己中心 (煩悩)」という病気があります。それを直してくれる医者を紹介してくれるのが「お釈迦様(ブッダ)」だそうです。このお釈迦様が、人間の病を治してくれる尊い医者を案内してくれるという、それが「弥陀」というお釈迦様の師匠です。「弥陀」という唯一の名医は、人間の「死の恐れ」と「自己中心 (煩悩)」という思い患いを直す薬として、「南無阿弥陀仏」という薬を作ってくださり、これを唱えればどんな人でも救われるというものです。悪人でも、いや悪人のように自分を捨てて、他力を信じる人こそ、それを唱えれば救われる。そして救いを得たならば、自然と感謝の心が起こってくる、その感謝の言葉もまた「南無阿弥陀仏」と言うのだそうです。親鸞の教えは感謝する力さえも、自分の力ではなく弥陀の力に頼って感謝するとの教えです。
使徒パウロが、その手紙の中で「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(1テサ5:16-18)と教えたのも、義務でするのではなく、神様から与えられた恵みに対して、聖霊の力によって湧きでるものだとする教えと重なるのです。
Ⅳ.響き合うものと、違う響きを聞き分ける
ある浄土真宗の住職(亀谷凌雲師)が、次のように告白していました。「私は弥陀の救いを求めるのだが、しかし、その弥陀がよく分からない」と言うのです。理屈は分かるし、慈悲というものは有難い、しかし、その実在がはっきりしないと言うのです。もっと、そのはっきりとした実態に触れてみたいのだと言うのです。その実態に出会いたいと、求め続けましたが見つからず、やがて、イエス・キリストという存在に出会い、キリストの福音を伝える者となったそうです。
「人となりたる神の言葉」という讃美歌の歌詞があります。イエス様は、神のかたちでありながら、人と同じ者になられました、人の姿で現れ私たちと出会って下さいました。そして救いの道を教えてくださった。それが、今日の聖書箇所マルコによる福音書で、カファルナウムの会堂で、権威ある者として語ってくださったイエス・キリストの姿です。それまで救われるとは思えなかった罪人も救いに与れるという、その教えには「驚き」がありました。そこにいた、汚れた霊は「ナザレのイエス、正体は分かっている。神の聖者だ」と、その存在に恐れ、叫ばずにはいられませんでした。はっきりと正体が分かっていたからです。
「私は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ誰も父のもとにいくことができない」(ヨハネ書14:6)と、この私そのものが道であり、私が真理であり、私が命だとおっしゃる方が、わたしたちに語り掛けてくださるのです。「ナザレのイエス、構わないでくれ」と心を閉ざす病気の症状は、今の私たちにも残っています。これを直してくださるイエス様という、完全な神であり、完全な人間である方が、私たちを癒してくださるのです。
先週1/19は高座教会の創立記念日で「今日は教会の誕生日だからお休みなんだよ」と息子に言いましたら「誰の誕生日?」と言うのです。「教会だよ、教会にも誕生日があるんだよ」と教えましたが「誰の誕生日なの?」と4歳の息子はよく分からない。誕生日が実態のある人物に結びつかないと分からないのですね。
イエス様には、その人、実態そのものから出て来る言葉がありました。それを権威ある言葉だとして人々は驚きました。そして、十字架に架かるという現実を通して、私たちに愛を示してくださいました。
最後に使徒パウロの言葉に耳を傾けて終わります。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です」(1テモテ 1:15節)。
お祈りをいたします。