和田一郎副牧師
歴代誌上29章6 -19節
マルコによる福音書1章40-45節
2022年1月30日
Ⅰ.規定の病
今日の聖書箇所は、先週に続いてイエス様が宣教の働きを始められた様子が続きます。イエス様は病をもった多くの人々を癒しました。そうして、イエス様の評判を聞きつけたのでしょう、ある病をもった人がイエス様のもとにやって来たのです。この人の病は「規定の病」とあります。以前の新共同訳では「重い皮膚病」とありましたが、当時ユダヤにあった様々な皮膚病のことを指しているのです。規定というのは旧約聖書のレビ記(13・14章)に規定された皮膚病です。
その規定の皮膚病の人は誰かに近づく時、自分から「私は汚れている」と叫ばなければなりませんでした、そして、隔離された生活をしなければならなかったのです。この規定の病にかかっている人に触れてしまうと、触れた人も汚れた者とされました。ですから、この規定の病というのは、病気だけではなく、差別と偏見にさらされてしまう現実があったのです。この人を見た周りの人は、後ずさりして目を背けたかも知れません。そんな扱いを受けていた人がイエス様のもとにやって来たのです。
彼は言いました、「お望みならば、私を清くすることがおできになります」(新共同訳は「御心ならば」)。
その声に応えたイエス様は、ご自分の手を差し伸べて、その人に触り「私は望む。清くなれ」と言われると、この人の病はたちまち治ったのです。この時、清められた人の様子は書かれていませんが、大いに喜び、大いに驚いたことでしょう。病気と差別と偏見から解放されたのです。しかし、イエス様はこの人に厳しく言いました。「誰にも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた物を清めのために献げて、人々に証明しなさい」。これはレビ記に書かれている通りの儀式を行うように言われたのです。そして、このことは誰にも話してはならない、「厳しく戒めて」とありますから、命令に近いニュアンスではないでしょうか。その理由は人々がイエス様の噂を聞きつけて宣教の働きが滞ってしまうからです。ところがこの人は、大いにこの出来事を触れ回り言い広めてしまった。イエス様のもとに人が押し寄せて来て、もはや表立って町に入ることができず、外の寂しい所に行くという状況になってしまいました。これが規定の病の人に起こった出来事です。
Ⅱ.「お望みならば」
ここで見逃してならないのは二人の会話です。規定の病の人はイエス様に「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言いました。昔の口語訳聖書では「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」となっていましたが、それは、どこか日本人的で奥ゆかしい言い回しに聞こえます。「すみませんが、もしよろしければ…」と遠慮がちに頼んでいるようになるのですが、今回の聖書協会訳のように「私を清くすることがおできになります」と、言い切った方が正しい意味が伝わると思います。彼が言ったことは「お願い」ではありません、「おできになります」と、イエス様への強い信頼があるのです。イエス様の力を信じている言葉です。私が清くされるのは、すべてはあなたのご意志次第です。そしてあなたなら私を必ず清めてくださいますという確信をもって言っているのです。それはもう、信仰告白と言っていいほど、力強いイエス様への信頼からくる言葉なのです。
それに対する、イエス様の言葉も重要です。「わたしは望む。清くなれ」これは「わたしの心だ」とも訳せます。わたしの望み、わたしの心、つまりイエス様の御心によって「あなたを清める」と言うのです。汚れを清めること、病気を癒すこと、心の慰めを与えること、そして、あなたの魂を救うことが私の御心だと宣言されたのです。
この箇所の二人の会話は、神様の御心について考えさせられます。規定の病の人は、イエス様の御心が、すでに分かっているかのようですし、イエス様もそれが当然のように御心を示されました。
神様の御心を求めるうえで大切なことは、私たちが何かを願う前に、神様は、そもそも私たちのために何を成そうとされている方なのかを知ることです。
エフェソの手紙には、天地創造の前に「御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。」(エフェソの信徒への手紙1章5節)とありますが、「前もって」とは、天地創造の前から、神様は私たちをご自分の「子」にしようと決めていたというのです。「自分の子」という親子の温かい関係にされたいと、あらかじめ思われていたというのです。
また、終わりの日、再臨の時についてヨハネの手紙一には「御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」(ヨハネの手紙一3章2節b-3節、新共同訳)。
これは再臨の時には、キリストに似た者とされていく。イエス様が清いように、清い者とされていくことを願っている、いやそのように必ずなる、それが神様の御心だというのです。この2つの聖句から、天地創造の前から、ご自分の子としようとされていた。そして、再臨の時、キリストに似た者となるようにされている。それが、神様が私たちに成そうとされている御心なのです。そもそも、自分の子にしたい、イエス様に似た者となって欲しいという御心をもっておられるのです。そして、今日の聖書箇所の規定の病の人も、神様の御心を信じて「あなたがお望みならば、わたしを清くおできになります」と確信して言ったのです。
わたしたちは、神様の望んでおられること、神様の御心を、聖書を通して知ることができます。イエス様の生涯、その働き、言葉、成された細やかなことを読んでいると、気付いたり驚かされるということがあるかと思います。しっかり観察すること、見て分かったことを記録することをモニタリングというそうです。イエス様の言動をしっかりモニタリングすると、神様の御心というものが分かってくると思うのです。
Ⅲ.その一瞬を見逃さない
最近読んだ本で、このモニタリングが聖書を読む上でも大切だと思わされました。高座教会の出身で、福井県の高校の先生をしているK先生が、教え子の高校生たちと地元で獲れる鯖を宇宙食にして認証された話しが本になっていました。国際宇宙ステーションに滞在した宇宙飛行士・野口聡一さんが若狭高校で作ったサバ缶を食べて話題になったのです。もちろん宇宙食ですから、基準の高い国際規格があります。NASAが定めたHACCP(ハサップ)という安全基準を満たした設備を高校に作らなければならない。そして、「宇宙日本食」という認定基準がJAXAにあって、それをクリアしなければならなかった。毎年入れ替わる高校生が13年間、先輩から後輩に引き継いで300人におよぶ生徒と先生が繋いだプロジェクトの話でした。NASAが定めたHACCPという設備を整える予算は高校にはない。K先生は、かつて外国で認証を受けた工場を見学して気付いたのが、要所要所でチェックして、それを記録する、要するに立派な設備が基準ではなくてモニタリングと記録することに注目したのです。サバ缶の加工にはJAXAから要望される味や柔らかさ、缶を開けたときに液が飛び散らないトロミをつける割り合いなど、生徒のモニタリングが13年間続いて宇宙食として認証された。私はそれだけではなくて、このK先生が生徒を見る、モニタリングの姿勢が凄いなと思ったのです。K先生はそれを「見取り」と言っていました、つまり生徒を見る目です。生徒たちの、ちょっとした気づき、一歩踏み出す瞬間を見逃さないというのです。それは生徒の「言葉」の時もあるが「行動」の時もある、どんなに小さなことでも、生徒が何かに気づいて踏み出した時に「相槌をうつ」「認める」それが学びや成長に繋がって、形となったのが「宇宙日本食 サバ缶」になったのです。
人の「言葉」や「行動」をモニタリングする力、それは聖書を読む時にも大切なことです。
Ⅳ.キリストをモニタリングする
イエス様の御心は「言葉」にも「行動」にも現れます。ちょっとした気づきでイエス・キリスト、その人を知ることができるはずです。今読んでいるマルコによる福音書1章16節以降で、イエス様はペトロとアンデレが湖で漁をしている様子を見ていたのです。二人が網を打っている、その仕事ぶりを「御覧になった」とあります。同じようにヨハネとヤコブの二人に対しても、網の手入れをしているのを「御覧になった」。その彼らの仕事ぶりから彼らの賜物をしっかりとご覧になっていたことが、モニタリングする中で分かるのです。K先生が生徒の一歩踏み出す瞬間を見逃さないのと同じです。私たちはイエス・キリストという方が、神の独り子であるが故に、人知を超越した力で一瞬で何でもやってのけてしまうかのように理解しがちです。「それは神の子だから」と片付けてしまうことがあると思います。しかし、神のかたちである方が、あえて人の姿となって、この地上の生涯を送られたのですその意味を受け止めなければならないでしょう。神でありながら、あえて人となられたことによって、私たちと同じ悩みや、辛い思い、生きづらさも分かってくださいます。
今日の聖書箇所では、規定の病をもった人が声をかけた。「お望みならば、私を清くすることがおできになります」。でもイエス様は、すぐさま清めをなさらなかったのです。「深く憐れんで」と、この人に憐みの心をまず持たれたのです。そして、手を差し伸べて、その人に触れたとあります。誰も近寄ろうとさえしない、この人に、手を伸ばして触れてくださったのです。そのちょっとした所作から、イエス様の御心が伝わってくるのです。先程のエフェソの手紙にあるように「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと・・・」されている神様の御心。それを知ることができるのです。
今日は「お望みならば」と題して、神様が望んでおられる御心について考えてきました。しっかりと聖書をモニタリングして、イエス様の「言葉」「行動」から御心を知ることができます。そして、この一週間イエス様の「言葉」「行動」に倣って、イエス様の眼差しをもって、自分の持ち場で証ししていきましょう。
お祈りをいたします。