カテゴリー
主日共同の礼拝説教

教会の仲間に加えられて―信仰の基本を確認する④

松本雅弘牧師
使徒言行録9章1節―31節
2022年2月6日

Ⅰ.はじめに

今日お読みしました聖書の箇所には、突然の回心を経験したサウルが、どのように教会の交わりの中に加えられ、その交わりの中で変えられていったのかが出て来ます。そのパウロの成長のために用いられた二人の人物がアナニアとバルナバでした。パウロは、彼らとの交流の中で、「迫害者サウル」から「使徒パウロ」に変えられていったのです。

Ⅱ.サウロの回心に用いられた人々

今日、ここに登場するサウルという人物は、後にパウロと呼ばれ、初期の教会の発展に多大な貢献をした人物です。ご存じのように新約聖書は27巻からなっていますが、その内の13の文書を書いたのが、使徒パウロです。
使徒言行録26章には、アグリッパ王の前で自らの回心を説明するパウロの言葉が紹介されます。
パウロはこう弁明しています。
「『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか。突き棒を蹴ると痛い目に遭うものだ』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。」(使徒26:14)
新共同訳聖書では後半の主イエスの言葉を「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」と訳しています。「とげの付いた棒」とは、さんざんクリスチャンを迫害していたサウルの心にチク、チクと指していた「とげ」を表しているのかもしれません。
考えてみますと、主イエスもサウルも同時期にエルサレムを訪問し、エルサレムに居た可能性があります。ガリラヤ出身の若きラビ、イエスと、タルソス出身のファリサイ派のホープ、サウルとは、互いに顔を合わせ、そのサウルが主イエスの教えを耳にした可能性も否定できません。ただ、たとえ二人が顔と顔を合わせて出会うことがなかったとしても、同時代に生きていたわけですから、主イエスの教えや奇跡、主イエスのご人格、さらに死からの復活という考えられない出来事を目撃した人々の証言を、サウルも直接耳にした。いや、少なくともその噂は聞いたことだと思います。その結果、主イエスの存在が、サウルの心に刺さる「とげ」のような存在になっていたのではないないでしょうか。
そして、もう一つ考えられる「とげ」は、初代教会最初の殉教者ステファノの存在です。そこを読みますと、執事ステファノが殉教していく場面、そこにサウルが居合わせたことを伝えています。ステファノは信仰を貫き通し、石で打ち殺されていきましたが、その彼が、「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」との告白の声は、それ以降、サウルの耳から離れなかったのではないでしょうか。
確かにサウルは自分が信じていたことをやり通した男です。しかしその間、復活の主の言葉にあるように「とげの付いた棒」を蹴飛ばしているようで、自らの心にチクチクと聖霊のとげがささった状態、それが良心の痛みとなっていたことに間違いはない。その痛みを打ち消すかのようにさらに激しく教会を迫害し、クリスチャンを追いかけまわし、挙句の果てに、大祭司から紹介状を書いてもらい、外国シリアのダマスコに向かう途中、最後、彼の方が決定的に主イエスに捕えられてしまった。
このように考えていきますと、サウルが回心にいたるまで、主なる神さまは、様々な出来事をとおし、人々を通して彼の心に働きかけておられたことが分かるのです。神さまの手段は「人」です。そうした人との出会いや交わりでしょう。この後で見ますが、サウルという熱狂的迫害者が本当の意味でクリスチャンになり、さらに使徒パウロへと導かれていくまでに、アナニアとバルナバという二人のクリスチャンとの出会いがあった。そのような主にある交わりを通して、「迫害者サウル」が「使徒パウロ」に変えられていった、そのことを今日の使徒言行録の個所は私たちに伝えているのではないでしょうか。

Ⅲ.サウロとアナニア

では、最初にアナニアについて考えてみたいと思います。アナニアは、獰猛な狼のようなサウルという男が、エルサレムの祭司長から権限を受け、教会を荒らしにやってきたことを知りました。恐れていたアナニアに対し、「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう」と主は言わたのです(15-16)。
原文で見ますと、「私」という言葉が繰り返されています。「私の名を運ぶため」「私が選んだ器」「私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないか」。原文では、単に「示そう」ではなく「私が彼に示そう」と強調されています。つまり、「この件に関し、私イエスがすべて責任を取る」と言うことでしょう。
アナニアは、主イエスに、自らの心の中にあった心配や思い煩いの一切を委ね、信仰をもって一歩踏み出した。そして「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです」と語りかけたのです。アナニアの方から遜って「兄弟サウル」と呼び掛け、主にあって「兄弟」として、仲間に加わることができるように和解の手を差し伸べたのです。そう呼ばれたサウルからしたら、驚きだったと思います。そして本当に感激したに違いない。回心した後、クリスチャンの口から最初に聞かされたのが、この「兄弟」という言葉だったわけですから!
迫害者が「兄弟サウル」と呼ばれ、受け入れられる。教会の仲間に、神さまの家族の一員に受け入れられたのです。これによってサウルの視力は回復し、聖霊に満たされていきます。そして、そのしるしとして洗礼を受けていくことになったのです。

Ⅳ.エルサレムの使徒との間を取り持ったバルナバ

さて、サウルを主にある交わりに向かい入れるために用いられたもう一人の人物がバルナバでした。「バルナバ」とはニックネームで、「慰めの子」という意味ですが、聖書によれば、「慰めを与える働き」は正に「慰め主」と呼ばれる聖霊の働きです。「慰めの子・バルナバ」は、この聖霊の働きのために用いられた器だったわけです。
では、具体的にどのように「慰めの子」としての役割を果たしていったでしょうか。まず注目すべきことは、バルナバは、サウルと使徒との間に信頼関係を作るため、決してサウルを批判せず、欠点を一言も口にしなかったのです。この時点で、サウルの欠点を言い始めたら、切りがなかったに違いない。欠点を挙げ始めたら、サウルのような男は誰からも仲間に迎え入れて貰えなかったでしょう。バルナバにはそれが分かっていた。ですから彼は一つの欠点も言わず、ただサウルの人生に介入された神の御業を語った。自分の判断ではなく、神ご自身がサウルという男をどうご覧になっているかが、いちばん大事なことだったからです。
そして、神さまと私たちとの関係がつながり、心が通い合う時はじめて、私たちは神さまから慰めを受けることができる。また人と人との心が繋がる時に初めて、慰めを経験できるのです。今日の聖書の箇所を見ますと、そのように主にあって関係が回復された結果、サウル自身の賜物と存在自体が喜ばれ、そのサウルを迎えた教会も祝されていった。
その様子が31節に出て来ます。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。」宣教の業、神さまのお働きが前進していったのです。
アナニアは、教会の迫害者サウルに自分の方から「兄弟サウル」と声を掛けました。神さまからの導きを感じ、勇気をもって、また謙遜に、彼アナニアの方から「兄弟サウル」と呼びかけたのです。そしてまたバルナバはバルナバで、何一つ欠点を上げ連ねることをせず、ただただ教会の交わりの中に招き入れることに神経を集中したのです。こうした二人が成したことは、考えてみれば、主イエスが私たちのためにしてくださったことです。
私たちは一方的な恵みによって罪赦され、神の子とされました。神さまを知り、神さまに知られ、愛されていることが分かり、その御心のうちに、本来あるべき自分自身の姿、神さまの素晴らしい作品として作られた自らを見出すことが許された者同士です。
ですから今度は、私たちが慰めの子「バルナバ」となって、また「アナニア」となって、教会の交わりにおいて、そしてそれぞれの遣わされた場で、その人を神さまに執り成し、人に執り成す働き、すなわち、そのような意味で、「主にある交わり」を形づくる務めを担わしていただきたい。
あなたの歩みを振り返り、自分にとってのアナニアやバルナバは誰だったでしょう?そして今、あなたにとってのサウルは誰でしょう?そのようなことも祈り求めつつ、主にある交わりに生きる、この一年の歩みとさせていただきたいと願います。
お祈りします。