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主日共同の礼拝説教

愛の連鎖―信仰の基本を確認する⑤

松本雅弘牧師
ヨハネによる福音書6章1-15節

2022年2月13日

Ⅰ.神からの恵み・賜物をどう用いるか=クリスチャン・スチュワードシップ

今日はヨハネ福音書6章に出てくる有名な「パン と魚の奇跡」の出来事を取り上げるわけですが、「クリスチャン・スチュワードシップ」が発揮されていく時に、何が起こって行くのかをご一緒に見ていきたいと思うのです。

Ⅱ.あらすじ

主イエスはガリラヤ湖の向こう岸に渡られたわけですが、そうした主イエスの一行を追いかけるように、大勢の群衆がやってきました。その群衆をご覧になり、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれ、そこに居合わせたフィリポに向かい、「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と問われたのです。
そう問いかけられたフィリポは考え、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」と答えたのですが、実は主イエスの問いとフィリポの答えには微妙なズレがあるのです。あくまでも主イエスは「どこで買えばよいか」と質問したのに対してフィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」と答えた。「イエスさま、お言葉を返すようですが、どこで買うか以前に、二百デナリオンものお金がどこにあるのですか?!そんな大金、持ち合わせていません!」。もっと言えば、「そんなの無理ですよ!考えるの、やめましょう!」と言ったのだと思うのです。するとその会話を聴いていた他の弟子たちが、〈どうにかならないだろうか?〉と思ったのでしょうか。食糧の献品を求め歩き周ったのかもしれません。
すると一つの動きが起こりました。アンデレが、五つのパンと二匹の魚を持っている少年を主イエスの許に連れて来て、「これでは何の役にも立たないですよね」と言ったのです。ところが、その僅かな食料が主イエスの手に渡ると、「大いに役立つもの」に変えられていくのです。

Ⅲ.パンと魚の奇跡

さて「クリスチャン・スチュワードシップ」とは、神からの恵みや賜物を管理することです。そのためにはまず、「神さまからの恵みは何か?/何を預かっているか?」を問うところから始まります。
ところが、私たちは一つの課題に直面するのではないでしょうか。恵みや賜物を見つけられない課題です。いや、仮に見つかったとしても、「こんなもの何の役に立つのか」と考えてしまう。そうした誘惑です。
6節に、主イエスが「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と言われたのは、「フィリポを試みるため」だったと書かれています。これは荒れ野でサタンが主イエスを誘惑した時に使われている言葉と全く同じです。
全てのものが「神さまからの賜物」なのですが、私たちの目に「何の役にも立たないもの/粗末でつまらないもの」と見えてしまう誘惑がある。一つひとつのことを「神の賜物」と見るのか「何の役にも立たないもの」と見るのかという場面に立たされる。
ここでもう一つ注目したい点があります。アンデレが取った行動です。当初、アンデレは、「こんなもの何の役に立つのか」と考えていたと思います。その思いを分かっていただくために、パンと魚を持っていた少年を、わざわざ主イエスのところに連れて来た。ところが実は、アンデレのこの行動、主イエスの所に人を連れて来ることこそが、賜物だったのです。勿論、アンデレ自身、少年が持っていた僅かなパンと魚で、目の前にいる大勢の群衆の空腹を満たせるなど、考えも及ばなかったでしょう。しかし主は、無意識であったかもしれない、そのアンデレの行動を用いられた。そしてまた少年の五つのパンと二匹の魚という大切な捧げ物を通して御業をなされたのです。
ここに大事なメッセージがあるように思います。「半分しか入っていません。役に立ちません」と、諦めてしまいたくなるような現実を、主に、そのまま委ねていく。そのようにして主イエスのところに持ち出された時から事柄が動いて行ったのです。
主イエスは、そのパンと魚を取って感謝の祈りを唱え、座っている人々に分け与えて行かれた。アンデレが「何の役にも立たない」と言った「五つのパンと二匹の魚」を取って祝福した結果、11節と12節。「欲しいだけ分け与えられ…人々が十分食べた」。新共同訳では、「人々が満腹した」とあります。
ところで、ここで腹を空かしていたのは群衆だけではなかったと思います。弟子たちも同じだったに違いない。パンと魚を配りながら、「俺たちの分はあるだろうか」と心配になったかもしれません。でも、13節。ちゃんと十二の籠、それも一杯になるほど、残った。そうです。主イエスは、十二弟子のこともしっかりと心に留めてくださっていたのです。

Ⅳ.愛の連鎖を起こすクリスチャン・スチュワードシップ

知人の先生がこんな話をされました。留学中アメリカで出会った日本人のAさんの話です。Aさんは、戦後まもなく渡米し、アメリカ人と結婚したクリスチャン女性ですが、当時は、アメリカでも、結構、生活が厳しかった。必死に働き家族を養ってきた。
ところが、ある時、同じように日本から来ていた友人が、誤ってプレスで指を落とし、その結果、解雇されてしまった。友人は解雇され、食べ物にも困る程、経済的に困窮してしまったそうです。
実は、それを知らされた頃、Aさんは、今日の聖書箇所、この五千人の給食の箇所を聖書で読んだのだそうです。そしてそこに出て来る「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という主の言葉が心にひっかかってしまった、というのです。
確かに友人の家は大変。仕事もなくなってしまったのだから。でも、自分たちも他人を助ける余裕なんてない。色々、助けない理屈を考えるのですが、最後には、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という言葉が心から離れなかったそうです。
そして最後には、「イエスさま、分かりました」と申し上げて、家族のために用意していた一月分のお肉を全部、プレゼントしたそうです。
相手も日系人の人なので、「日本人は、すぐにお礼やお返しを考えるけど、もしお礼がしたかったら、周りの困っている人に恩返しして欲しい」と言って渡したそうです。
ところが、数日後、本当に不思議なのですが、親戚の人がAさんのところに沢山の食料をもって訪ねて来た。ですから、その月、Aさんの家も困らずに済んだそうです。
話はそれで終わりませんでした。その出来事があってから10年ほど経たったある日、見知らぬ人が菓子折りをもってAさんのところにやって来た。話を聴くと、その人は、自分が困っていた時に、ある人に助けられた、という話を始めたそうです。
そして、自分を助けてくれた人の話を聴くと、実はその人も別の人に助けられ、その別の人が実はさらに別の人に助けられていた。どうやら、「困っていた時に誰かに助けられる」という、「連鎖」で、自分が助けられていることが分かった、というのです。
そして、その人曰く。「自分は、その最初の人に会って、どうしてもお礼が言いたいと思って、助けてくれた人をずっと遡って来たところ、どうやらあなたが最初だった。あなたがお肉をプレゼントしてくれたので、その人が別の人を助けて、その別の人が、さらに別の人を助けた。そして私が一番最後なんです」と言ったそうです。
以前、柳沢美登里さんが所属している、「声なき者の友の輪」の先生方に来ていただき、「愛の種まき」というテーマで、クリスチャン・スチュワードシップについて学びをしていただいたことがありました。その時、先生方からお聞きしたのは、「愛の種まき/愛の業」は種まきですから、人目につく地表ではなく、人目につかない土の中にしっかりと蒔く必要があるのだ、と教えていただきました。まさにAさんの働きのように、です。
「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」、また「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。主イエスはそう言われる。
そうした時に、私たちも、ここに登場する少年のように自分にあるものを差し出していく。あるいは、「何の役にも立たないのではないか」とアンデレのように、様々な思いも湧いてくるかもしれませんが、その状況もすべて含めて、主に委ねていく。人が見ていなくても、神さまは見ていてくださる。
神さまは、様々な賜物をもって私たちを祝福してくださいます。それが神からの尊い賜物であることを見る目を、神さまから常にいただきたいと思います。そのようにして、私たちも愛の連鎖に用いられる者とさせていただきましょう。
お祈りします。