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主日共同の礼拝説教

ヤコブ、とうそう中!

金山達成神学生
創世記28章10-17節、32章25-31節
2022年2月20日

Ⅰ.はじめに

クリスチャンの方にお聞きしたいのですが、「神様を信じるようになった一番のきっかけは何ですか?」と尋ねられたら、どんな出来事を思い浮かべますか?人によって答えは様々でしょうが、私たちがどんなきっかけでクリスチャンになるとしても、「自分の人生の主導権を神様にお渡ししよう」と決断したという点は共通していると思います。
そこで今日は、ヤコブという人物が、様々な経験を経て自立したクリスチャンになるまでの様子をご一緒に見ていきたいと思います。ヤコブの人生は2つの意味で「とうそう」する人生でした。そして、様々な経験を経て、やがて一人のクリスチャンとして神様の前に立つようになります。

Ⅱ.Ep.1:エサウから「逃走」するヤコブ

創世記28章は、ヤコブが兄エサウから逃げる、「逃走」している場面です。このときのヤコブは、父を騙し、兄を出し抜いてしまったという罪悪感、将来への不安・孤独などに苛まれて、暗い気持ちだったと思います。そしてヤコブはある夜に、不思議な夢を見ます。
興味深いのは、13節で「私は主、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神である」と言われていることです。私たちはよく、神様のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と表現します。しかしこの時点ではまだ、「ヤコブの神」とはなっていないのです。これは、まだ神様とヤコブとの個人的な関係が築けていない、ということを表しています。
ヤコブは、これまでは親の信仰に守られていました。ヤコブは両親から神様についての話は聞いていたはずですし、神様のことを信じていなかったわけではないでしょう。でも、それはあくまでも「親の信仰」という傘の下での理解にすぎなかったように思われます。
ここで、神の使いたちが階段を昇り降りしているという光景は、その場所にまさに神様がおられるということ、そして、神様が自らヤコブと個人的な関係を結ぼうと迫っている様子を表しています。主は、14-15節に記されている、父祖アブラハムや、父イサクと交わしたのと同じ祝福の約束をヤコブにも提示しました。
16節を見ると、ヤコブは「本当に、主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった」と告白しています。ヤコブは、今まで自分は本当の意味で神様を知らなかった、自分の人生の中心に神様をお迎えしていなかった、ということにここで気づかされたわけです。そもそも、父と兄を裏切って家出してきたわけですから、神様がそんな自分と一緒にいてくれるはずがない、という気持ちもあったかもしれません。にもかかわらず、神様はヤコブの前に現れてくださいました。
私たちも、こんな自分と一緒に神様がいてくれるはずがないとか、こんな職場・学校に、神様がいるはずがないと考えることがあるかもしれません。でも、神様はいつでもどこでもその場に臨在してくださり、私たちと出会いたいと願っておられるのです。

Ⅲ.Ep.2:主の使いと「闘争」するヤコブ

創世記32章は、ヤコブが主の使いと闘う、「闘争」している場面です。兄エサウと再会する前夜のことですが、25節を見ると、ヤコブは自分の妻や召し使い、子ども、家畜などを先に行かせ、一人きりになります。すると、ある男が現れて、ヤコブと格闘を始めます。この「ある男」とは、「主の使い」、まだ人間の姿をもつ前のイエス様だと思われます。
26節に、「その男は勝てないと見るや、彼の股関節に一撃を与えた」とあります。主の使いの目的は、ヤコブが、人生の問題を神様に委ねるようになること、人生の主導権を神様に明け渡すことです。ところが、ヤコブの性格は強情で、なかなか変わろうとしません。
そこで主の使いは、ヤコブの股関節を打ちます。この関節が外れてしまうということは、片足が不自由になるということですが、それでもヤコブは諦めずに格闘を続けました。そして27節で、「祝福してくださるまでは放しません」と言います。この時点で、ヤコブは兄エサウへの恐れを忘れているのではないでしょうか。人生には色々な問題が起こる。でも、神様の祝福がなければ何にもならない、何も始まらない。今までのヤコブとは少し様子が違います。
28節では、主の使いが「あなたの名前は何と言うのか」と尋ねます。「ヤコブ」という名前には、「かかと」という意味があります。これは、双子の兄弟であるエサウとヤコブが母親のお腹から出てくる時に、ヤコブが兄エサウのかかとを掴んでいたことに由来します。そのようにヤコブは、他人の足を引っ張る、他人を押しのけるという性質をもっていました。
そんなヤコブに対して、主の使いは、29節で「あなたの名はもはやヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる」と語ります。「イスラエル」には、「神と闘った人」や「神が戦われる」という意味があります。これからは自力ではなく、神様の力により頼みながら、人生の様々な問題を乗り超えていくのです。
ヤコブの姿は、私たちの姿でもあります。自分には神様は必要ない、自力で問題を解決したい、自分の思い通りに生きていきたい…そんなヤコブの姿を、また私たちの姿を、神様は微笑みながら眺めておられるのではないかなと想像します。そして神様は、そんながむしゃらに生きようとする私たちをそのまま放置するのではなく、人生には神様の助けが必要であること、そして人生の主導権を神様に明け渡すことがどれだけ大切かということを、優しく教えてくださる方なのです。
この後、ヤコブは兄エサウと対面することになりますが、エサウはヤコブを抱きしめ口づけして迎えました。そして、ヤコブはもはや以前の姿ではありませんでした。足を引きずり、その歩みは遅くなりましたが、兄エサウの前にへりくだり、謙虚な人となりました。

Ⅳ.おわりに

今日は、ヤコブの人生の転機となった2つのエピソードをご一緒に見てきました。
私たちにとって、神様との個人的な出会いを経験し、その人生を方向転換するきっかけとなった出来事はなんでしょうか。私たちの日々の歩みというのは、そのような神様体験の積み重ねなのだと思います。時には、家族や仲間から離れて、神様との個人的な関係を深め、自立した信仰をもつことも必要でしょう。時には、神様と真っ向からぶつかり、傷を負ってでも神様の存在の大きさを再確認することも必要でしょう。
これからも私たちは、自分自身の、他の人とは違う自分だけの物語、神様体験、その積み重ねを大切にしつつ、また、まわりの人たちのそれぞれの物語や神様体験を尊重しつつ、神の家族としてともに歩んでいきましょう。
お祈りします。