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主日共同の礼拝説教

あなたは神の何分類?

篠﨑千穂子神学生
ヨハネによる福音書10章22~30節
2022年2月27日

私の友人が、あるとき、「人は4つに分類することができる!」と言っていました。
①『ゆるクリ』=ゆるいクリスチャン
②『ガチクリ』=ガチ(本気)のクリスチャン
③『元クリ』=元クリスチャン
④『ノンクリ』=ノンクリスチャン
という分類だそうです。
私の友人の作ったこの分類は、聖書の主張と果たして合致しているのでしょうか?

まず今日お読みした聖書では、イエス様のところに、ユダヤ人が集まってきてこう言います。
「あなたは救い主メシアですか、そうじゃないんですか、はっきり言ってください!」
そこでイエス様はこんな答えをします。
25節から30節、「私は言ったが、あなたがたは信じない。私が父の名によって行う業が、私について証しをしている。しかし、あなたがたは信じない。私の羊ではないからである。私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。私と父とは一つである。」
これを聞いたユダヤ人たちは、イエス様を石で打ち殺そうとします。
イエス様の言動を「主の名をそしること」「父なる神様を貶めること」だと考えたからです。
そしてその根底にあったのは、「神の子」=「救い主」のイメージの勘違いにありました。
ダニエル書7章13~14節を根拠にしてユダヤ人たちは「人の子」すなわち「神の子」のことを、「軍事的にも政治的にもカリスマ的な指導力をもった、雲に乗って現れる不思議なスーパースター」だと考えていたようです。
また当時は「自称メシア」があちらこちらで現れていました。だから、普通の大工にしか見えないイエスという青年に、「神の子」を名乗られたところでユダヤ人たち、ことに宗教家たちはそれを信じるどころか、神経を逆なでされるばかりでした。
けれども、この普通の大工にしか見えないイエスという青年、この方こそ救い主であったのだと、福音書記者ヨハネは主張します。

またユダヤ人たちは、「神の民」という言葉も勘違いしていました。
彼らは「祝福された人」=「神の民」と考えていました。そしてそれは具体的にどういうことかというと、「お金をたくさん持っていて、社会的に成功していて、元気で、子どもがいっぱいいる人」…と考えていたようです。
そんな基準から照らすとイエス様は「祝福された神の民」としての大半を持っていない方でした。
だからイエス様が「神の民」だなんて、ましてや「神の子」=救い主だなんて、当時のユダヤ人たちには考えることがどうしてもできなかった。
イエス様は、「神の子」のイメージからも、ユダヤ人としてのアイデンティティである「神の民」のイメージからもかけ離れた、人々に決して理解されることのない救い主でした。

でも、その中でもわずかにイエス様を理解した人たちがいました。
その人たちの多くは、社会的に弱い立場の人たちでした。お金も、社会的地位も、健康も、子ども持たない、「神の民」として人々から認められなかった人たち。人生において喜びの数よりも、悲しみや絶望がちょっと多かった人たち。
そういう人のことを、救い主であるイエス様が、「彼らは決して滅びない。」「彼らを私の手から奪う者はいない」と語っておられるのが、今日お読みしたヨハネによる福音書10章28節です。

以上を踏まえて、「あなたは神の何分類?」と考えたとき、『ガチクリ』『ゆるクリ』『元クリ』『ノンクリ』と私の友人は人を4つに分類にしましたが…もし仮に、この分類が存在するとしたら、あなたは、自分をどの分類だと思いますか?

自分を『ガチクリ』と思っている方がいらしたら、自分と違うあり方をする人を愛する人になりましょう。
自分は『ゆるクリ』と思っている方がいらしたら、あなたを愛してくれた神様を愛する喜びを知りましょう。
自分は『元クリ』と思っている方がいらしたら、あなたを神から引き離すことは誰にもできないというヨハネによる福音書10章28節のことばを思い出してください。
自分は『ノンクリ』と思っている方がいるでしょうか。今日のこの礼拝にあなたを導かれた神の存在を信じ、救い主を信頼することができますように。

私たちは、その時々の人の視線や自分の気持ち、そしてコンディションに左右されて、人のことも、時には自分のことも、いろいろな分類にあてはめようとしてしまいます。
でも、イエス様がわたしとあなたに語ってくださることは、ただ「あなたは私の民だ。」ということだけなのです。
私たちは、『ガチクリ』でも『ゆるクリ』でも『元クリ』でも『ノンクリ』でもなく、ただただ「神の民」なのです。
ただ、「イエス様を信じた」というその一点において私やあなたを「神の民」と呼んでくださる主に信頼をして、この1週間を歩んで参りましょう。
お祈りをいたします。