松本雅弘牧師
出エジプト記20章15節、エフェソの信徒への手紙4章28節
2022年3月6日
Ⅰ.はじめに
2月24日、ロシア軍が国境を越えて、ウクライナに侵攻しました。つい先日まで、戦争の噂はあっても、多くの人は、ロシアはそこまでしないだろう、と楽観視していたわけですが、あれよ、あれよという間に、今のような状況が起こりました。
実は、「ウクライナ」という国名で、心に浮かんだ本がありました。子どもたちに読み聞かせた『てぶくろ』という絵本です。子どもたちが小さかった頃、この絵本を読み聞かせながら、どこかクリスマス・ストーリーと響き合っているように感じ、アドベントに何度か取り上げたことがある物語です。
ある時、森を歩いていたお爺さんが、手袋を落としてしまうのです。そこに一匹のねずみがやってきて、その中に入り込みます。しばらくすると、カエルがその手袋を見つけ、中に入っているネズミに「私も入れて」と頼むのです。ネズミは快くカエルを迎えます。次にウサギがやってきて、やはり中に入れてもらいます。次にキツネがやって来て、やはり中に入れてもらうのです。そして次々と動物たちがやって来て、不思議なことに手袋は次第に大きくなるのですが、彼らの心配をよそに、柔軟に伸びて、スペースが広がっていくのです。そうしたお話です。
私たちが目指すべき共同体や社会の在り方に関わるビジョンをこの物語は私たちに伝えているのではないだろうか。その物語で育った人々が、侵入者によって傷つけられている。殺されている。正に命を奪われている。
さて、今日は、久しぶりに十戒からの説教ですが、その第八戒の部分です。出エジプト20章15節、「盗んではならない。」という戒めを御一緒に見ていきたいと思います。
Ⅱ.「養育係」としての律法
ところで、歴史の教会は、この第八戒をどのように読み、受け止めてきたのでしょうか。『ハイデルベルク信仰問答』を調べてみますと、第110番目の問答に第八戒が取り上げられています。
【問い】 神は、第八戒において、何を、禁じておられますか。
【答え】 神は、ただに、官憲の罰する、窃盗や強盗を、禁じておられるだけでなく、不正な、目方、物差、枡、品物、貨幣、利息、その他、神に禁ぜられている方法によって、暴力によるにせよ、権利を装うにせよ、隣人のものを、自分のものにしようとする、一切の悪いこと、企てをも、盗みとよばれるのであります。なお、これらに、すべての貪欲、自分に与えられたものの、不必要な浪費をも加えるべきであります。
この問答を見ますと、「盗んではならない」という戒めの意味を、とことん突き詰めて、厳格に受け止めています。
モーセの十戒は、出エジプトという救済の出来事の後に、神の民に授けられた戒めの言葉です。すでに救済された者たちに向けて語られているわけですが、しかし同時に、「盗んではならない」という神の戒めの言葉を前にして、私たちはもう一度、自らのエリを正される。いや、自分たちの罪と向き合うように導かれるようにも思うのです。
つまり、十戒という律法が、すでに神さまを知った私たちに与えられた「生活指針」という側面に加え、新約聖書を見ますと、実は、律法のもう一つの大事な目的が教えられている。それは使徒パウロが「養育係」と表現した側面、一言で言うならば私たちの心に罪を示す働きです。
パウロはローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙などで、「…律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。律法が『貪るな』と言わなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう」と言い、「律法は、私たちをキリストに導く養育係となりました。」(ガラテヤ3:24)と語っています。つまり律法によって罪が示され、結果として私たちは、罪を贖う十字架へと、律法によって誘われていく。そのような意味で、「律法は、私たちをキリストに導く養育係となりました」とパウロは語るわけです。
Ⅲ.「盗む」という言葉
ところで、「盗んではならない」という戒めの意味とは、他人の持ち物を盗ること、つまり泥棒することでしょう。しかし聖書を調べてみますと、「盗む」という言葉は、もう少し広い意味のある言葉のようなのです。実は、「死刑に当たる重い罪とは何か」が書かれている、十戒に続く出エジプト記21章の中の16節、「人を誘拐する者は、その人を売っていても、自分のもとに置いていても、必ず死ななければならない」とある、「誘拐する」という言葉が、今日の「盗む」という語と、全く同じなのです。
当時、残念ながら奴隷制度がありました。そうした中、自由な人間、子どもや、男性や女性を誘拐する。そして奴隷として売り飛ばし、自ら利益を得る。出エジプト記によれば、これは死刑をもって報いられるべきものとして、戒められています。つまり、「盗んではならない」という第八戒は、単に物品を盗むことに限らず、自分のやりたいことを遂げるために、神のかたちに造られた人間の自由、言い換えれば人権を奪う。正に、今、ロシアがウクライナの人々に対して行っていること、その物のように思うのです。
ところで今日は、新約聖書の朗読箇所としてエフェソ書の4章28節を読ませていただきました。この御言葉は、今日の「盗んではならない」という戒めが向かうべき、方向性を明確に示している箇所と言われます。エフェソの教会には、実際に盗みを働く者がいたのかもしれません。ですから、「もう盗んではいけません」と戒めているのでしょう。あるいは実際には表立った問題にはなっていなかったとしても、罪ある私たちの心の根っこのところにある、他者を顧みない罪、その結果、他者の自由や権利を侵害しても無頓着でいる罪が、クリスチャンになった後でも、共同体の中に見受けられたのかもしれません。そのようなエフェソの人々に対してパウロは、この御言葉を語っているのでしょう。そのように見ていきますと「盗むこと」の予防となるのが「労苦して自らの手で真面目に働」くことだ、とパウロが語っている点に注目したいのです。新共同訳聖書では、「労苦して自分の手で正当な収入を得、…るようにしなさい」と訳しています。つまり、〈儲ければ、お金になれば何でもいい〉というのではなく、「正しい仕事をする」ということでしょう。この仕事は、神さまが私にさせたい働きかどうか。そのことを、神さまの御前に吟味し、そのような意味で良い仕事をしていくようにと、勧めます。
決して「出世しなさい」とか、「事業を拡大するように」、あるいは、「たくさん儲けろ」とも語られていません。そうではなく、「正しい仕事をしなさい。良い仕事をしなさい。その手の業が残る仕事をしなさい」。そして「必要としている人に分け与えることができるようになりなさい/仕事を通して与える者になりなさい」と勧めるのです。
「余ったら上げる」という世界ではないのです。正当な働きをすることで、困窮している人々に与えることができる。ここに聖書の教える職業観/仕事観があらわされているように思います。つまり、働いて生きるということは他者と分かち合うためである。労働それ自体が、すでにそのことを目的としているということでしょう。
Ⅳ.てぶくろの温かさ
冒頭で紹介した『てぶくろ』はこんな物語です。お爺さんが落とした手袋にネズミがやってきて中に入る。するとカエルも「入れて」とやって来ると、ネズミは快く迎える。そのようにして手袋の住人たちは迎え入れられ迎えていく。大きさや姿も違います。でも、そうした多様性を包み込むように手袋は不思議なほどに柔軟性を発揮する。主イエスをこの世に遣わせてくださった神さまは、地球という手袋、あるいは私たちが作りだす社会という手袋に、そうした柔軟性を期待しておられたのではないだろうか、と思います。
この世界に生を受けた者として、手袋の住人となる権利を持つ者として、自分とは違った人々と共存する責任がある。そのようにして人の輪は広がっていく。そのために主イエスは、当時の世界からしたら周辺のベツレヘムの家畜小屋に生まれて来られた。それは社会から弾き飛ばされた羊飼いたちを神の国という手袋の中に迎え入れるためでした。そして誕生の直後、ヘロデ大王の迫害を逃れ、エジプトに政治難民として身を寄せて行かれます。今、ウクライナの人たちは、着の身着のまま、祖国を追われ、その数、百万人を超えたと報じられていました。主イエスも自らその体験をなさった方として、ウクライナの人たちと寄り添ってくださっていることだと思います。
「盗んではならない」。他者の存在を否定し自由を奪ってはならない。ウクライナ民話に登場する動物たちのように、大きさが違っても、見た目が怖くても、むしろみんながこの世界に迎え入れられている恵み、そしてそうした時に、神様がそれを用い、私たちの世界、また社会が、柔軟性を発揮できるように、その方向を私たちが選び取っていきたいと願うのです。お祈りします。