<受難節第2主日>
松本雅弘牧師
出エジプト記20章16節
エフェソの信徒への手紙4章29節
2022年3月13日
Ⅰ.偽りの証言とは何か
第九戒は「隣人について偽りの証言をしてはならない」と語り、どこか硬い表現ですが、実は法定用語で、証人として出廷した人が、犯す過ちのことをここでは「偽りの証言」と呼んでいます。
当時のユダヤ社会では、コミュニティー自体がとても小さく、それに加え、現代のように指紋や科学的調査もありませんし、物的証拠などを集めにくい時代でしたから、結局は立てられた証人の言葉を聞くよりほかありませんでした。そう考えると、今の時代に比べ、証人として立てられる頻度は多かったようです。
Ⅱ.新しい生き方としての第九戒
そもそも「偽証」とは、その人を悪く言って、その人の足を引っ張るためにすることでしょう。このように考えて来ると、必ずしも法廷の場面に限らず、私たちの日常生活においても心して聴くべき、大事な戒めの言葉だと思うのです。そうした中、前回も引用しましたハイデルベルク信仰問答がこの第九戒について語っている言葉を参考にしたいと思います。第112の問答に次のようにあります。
問い:第九戒は、何を、求めていますか。
答え:わたしが、誰に対しても、偽りの誓いをなさず、誰に対しても、言葉を曲げず、陰口をきかず、悪口をいわず、誰をも、調べることなく、軽率に、罪に定めることを、助けず、反って、すべての虚言、詐欺を、悪魔自身のわざとして、神の重き怒りをおそれるゆえに、避けて、法廷においても、他のすべての事柄においても、真理を愛し、正直に語りまた告白し、自分の隣人の栄誉と威信とを、自分の力でできるかぎり、救いまた増すように、ということであります。
これによれば、歴史の教会は、第九戒を単に法廷での偽りの証言への戒めに限定せず、日常生活で偽り語り嘘をつくことから遠ざかることが、隣人を愛することを戒めることが、第九戒の主旨であることを言い表していることが分かります。
ところで、ハイデルベルク信仰問答は各問答に続き、その問答を裏付ける聖句が紹介されていますが、第112の問答に続く聖句の一つが、エフェソの信徒への手紙4章25節なのです。今日の新約聖書の朗読箇所はそれに続く29節です。
そのようなことから、今日は、エフェソ書4章25節から32節の箇所を中心に第九戒の意味について掘り下げてみたいと思います。
ここには十戒同様に、「こうすべきだ」「ああしてはならない」と命じられていますが、結局、このようなことを通して、聖書は私たちに何を教えているかと言えば、「神の聖霊を悲しませてはなりません」(30節)ということです。主イエスも教えておられますが、そもそも戒めや律法が言わんとしていることは何かと言えば、「神を愛することと、隣人を愛すること」です。神さまは何を願っておられるのか。言い換えれば、神さまの御心に触れることが大切です。
この点がはっきりして来ないと、十戒を含め、この箇所も単に細かい規則の羅列ように見えてくるだけで、何か窮屈で煩わしくなってしまう。大切なことは、人格的な神さまとの交わりの中で、恵みの関係の中で、神さまはなぜここに書かれているような生き方を喜ばれるのか、このような生き方が、実は私たちのためになるのか、そう考えながら、受け止めていくことが大事なことでしょう。
Ⅲ.互いに真実を語り合う
25節を見ますとパウロは、偽りを捨て積極的な意味で真実を語ることの理由が、「私たちは互いに体の部分だから」と説いています。実は32節にも、「互いに」という言葉が出て来ます。つまり私たちは独りぼっちに生きるのではなく、互いに愛し合う者として生かされているということでしょう。そのような者として生きていこうとする時に、もっと言えば、自らを相手に差し出して生きていく時に、神の聖霊、すなわち神さまは喜んでくださるというのです。
そうした中、「偽りを捨て」と説かれているのですが、ここで言う「偽り」とは「嘘をつく」という意味として取れますが、ある人は、もう一歩踏み込んで、「偽りとは自分には問題がない、ということだ」と説明していました。「私は間違っていない。問題は私以外の人にある」と考えてしまう。それが神さまとの関係においても、横との人間関係においても、そうした関係や交わりを傷つける「一番の偽りなのではないか」というのです。
第九戒の解説としての、この25節でパウロは、「一人一人が隣人に真実を語りなさい」と勧めます。繰り返すようですが、「偽り」とは、問題は自分にあるのではなく、自分以外の周りの人たちに原因がある。ですから周りの人は変わらなければならない。周りの人を変えなければならない。これが「偽り」です。これに対し「真実」とは、自分にも課題があり各人にも課題がある。でもキリストがあるがままで愛してくださっているように、互いに弱さを差し出し、そうした主にある交わりの中で、互いのことを祈り合い、支え合い、キリストに向かって成長していく。これがパウロのいうところの、神さまが喜ばれる「真実」な生き方なのです。
もう一つ、パウロは、「悪魔に隙を与えてはなりません」と勧め、悪魔の存在に注意を促しています。聖書が教える悪魔の働きとは、神さまに関して悪いイメージを吹き込み、神さまへの信頼を損なわせるものです。さらに、「隙」と訳されているギリシャ語は「場所」という意味ですが、考えてみれば、悪魔は活躍する場所や機会が欲しいのでしょう。悪魔が活躍する場所、それは神不在のこの世の価値観、神抜きの古い生き方のことです。
家庭でも教会でも、この世の価値観が強く働く時、悪魔は活躍する場所が広がっていきます。キリストを信じて新しくされた後も、パウロが言うところの「古い人」をよしとし、自分の我儘をよしとすると、活躍する場所が増え、悪魔は喜ぶのです。
最後に、今日の第九戒に直接関係している29節を 見たいのですが、ここでパウロは、「悪い言葉を一切口にしてはなりません」と勧めています。「悪い言葉」とは相手を腐らす言葉、人の心を腐らせ、萎えさせる言葉。不信仰な言葉、人に希望を与えない、励ましとならない言葉のことでしょう。パウロはそうした言葉を「一切口にしてはなりません」と強調します。それは隣人を愛することで、「その人を造り上げる」ことになる。この「造り上げる」という言葉は建築用語で、実際に家を建てる時に使われる言葉だそうですが、まさにクリスチャンとして成長するように、キリストに似たその人、神さまが願うその人になるように、そのような意味でその人を建て上げるのに役に立つ「必要な言葉を語る」。新共同訳聖書の方を見ますと、むやみやたらにではなく、「必要に応じて語りなさい」となっています。
Ⅳ.神さまに愛されているから、偽りを語らずに生きることができる
さて、そもそも何故、私たちは嘘をつき、真実を語ることができないのでしょう。『エクササイズ』の第二巻を読みますと、偽りを語る、嘘をつくのは私たちの心の奥底に恐れがあるからだと教えています。偽ること/嘘をつくことで、自分が求めているものを手に入れたいという欲求、その場合の「自分が求めているもの」とは、人に良く思われたいとか、良い評価を得たい等々です。そして真実を語った結果、不利益を被る怖れ、あるいは、何が起きるのかという怖れがあるから偽ったり、嘘をついたりする、というのです。
私は創世記3章に登場するアダムとエバを思い出しました。罪を犯し、神との生きた関係が断たれてしまった二人は、自己受容が出来なくなってしまった。その結果、象徴的な行為ですが、いちじくの葉っぱで自分を覆うことで、弱さを隠し、逆に見た目をよくしようとする。要は偽りをもって、相手の目をごまかしたのです。
使徒ヨハネは恐れからの解放は神に愛されることだと教えます(Ⅰヨハネ4:18)。私たちを恐れから解放するのは、やはり、あるがまま、そのままの姿で私たちを受け入れてくださる神の愛を経験することです。その愛の現実に浸り続ける事しかないのです。
いつもお話しますが、主イエスの公生涯がどこから始まったかと言えば、洗礼を受けたところです。その時、天から「これは私の愛する子、私の心にかなう者」という愛の宣言があった。まだ誰一人癒しておらず、山上の説教も語る前です。5千人の給食という奇跡も何もしていない、メシアとしての働きがゼロの時点で、すでに神さまの目から見て主イエスは、「これは私の愛する子」なのです。そしてそれは私たち一人一人にも当てはまる。ですから、もう偽りを語る必要はない。偽りを語ることで、自分をよく見せる必要もない。自分の本当の姿を知られたら、自分は不利になる、と思う必要はないのです。勿論、この世の価値基準で一時的に不利益を被るかもしれません。でも永遠に続く神の国の基準の方がどれだけ大事か。だから私たちは偽ることなく、真実を語って歩むことが出来るのです。
お祈りします。