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主日共同の礼拝説教

貪欲の罪―第十戒

<受難節第3主日>
松本雅弘牧師
出エジプト記20章17節
エフェソの信徒への手紙5章1-5節

2022年3月20日

Ⅰ.はじめに

今日は、十戒の学びの最終回、第十番目の戒めです。出エジプト記20章17節に出て来ますが、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。」とありますが、今日は貪りの罪について考えてみたいと思います。

Ⅱ.ハイデルベルク信仰問答の受け止め方

さて、今日も最初にハイデルベルク信仰問答を参考にさせていただきたいと思います。ハイデルベルク信仰問答の第113番目の問答が、第十番目の戒めを扱っています。
問い:第十戒は、何を、求めていますか。
答え:神のどんな戒めにも背く、最も小さな、快楽や思いも、もはや、決して、われわれの心に、起こることがなく、かえって、絶えず、心から、すべての罪の敵となり、あらゆる正しいことを、喜びとするように、なることであります。
この問答は、第十戒は何を語っているかではなく、第十の戒めそれ自体がどのような生き方を求めているかを問うています。それを一言で言えば、心からすべての罪の敵となること。あらゆる正しいことを、喜びとするようになることなのだと示しています。
実は今回の問答の後に続く聖句の中には出てこないのですが、エフェソの信徒への手紙に5章1節から5節に、貪る罪に関する具体的な教えが出て来ます。今日は、その箇所を読みながら、十戒が戒める貪る罪について考えてみたいと思います。
1節と2節でパウロは、「ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。」と語り、私たちに与えられている招きが神に愛されている者として生活することへの招きであることを明らかにしています。さらに3節では、「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく歩みなさい」と語り、その招きが聖なる者にふさわしく生きることなのだと教えています。ここに「聖なる者にふさわしく」とありますが、これは神の子とされた者にとっての「ふさわしさの基準」と言えます。
ここでパウロは、一般的なこの世の基準に照らしての良いこと/悪いことでなく、神さまの愛にふさわしく生きているかどうかなのだということを説いています。
主イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けることを願った時、最初ヨハネは洗礼を授けることを辞退しようとしました。なぜなら、ヨハネからしたら自分の方こそ、主イエスから洗礼を受けて当然だし、そのほうがふさわしい、と考えたからでしょう。ところが、これに対し主イエスは、本当にへりくだり、「今はあなたから洗礼を受けることが、ふさわしいことなのだ」とおっしゃった。何故でしょう?
主イエスはまことの神の独り子だったのですが、へりくだって人間の姿をとり、ベツレヘムの家畜小屋にお生まれになりました。飼い葉桶に寝かされ、公の生涯で枕する所もなく、僕のように人々に仕え、最終的には十字架にまでへりくだられたお方だからでしょう。
ですから、本来、罪人が受けるにふさわしい洗礼を受けるために、順番を待つ罪人たちの長蛇の列のしんがりに並び、罪人の代表として洗礼を受けられることが、実は神さまの愛にふさわしいことだった、と聖書は私たちに示しているのです。
こう考えて来ますと、主イエスの生涯は、善悪の基準や、この社会の理屈で計ったとしたらふさわしいことなど一つもない。むしろふさわしくないことの連続だったと思います。そもそも何で神の子が飼い葉桶に誕生しなければならなかったのか。十字架にかからなければならなかったのでしょう。私たちの方こそ十字架にかかって当然。理屈の上ではそうなります。善悪の基準で言ってもそうでしょう。けれども、罪のない神の独り子が十字架にかかることが、神の愛から見てふさわしいことだったのです。
3節、4節にある、この「ふさわしさ」とは、私たちの理屈に合う、この世の基準における「ふさわしさ」ではなく、神の愛にふさわしく生きているかを問題にしているのです。ここに神さまに愛されている神の子としての、私たちクリスチャンとしての生き方の基準、「ふさわしさ」の基準があるのです。

Ⅲ.貪欲の罪と偶像礼拝

5節をご覧ください。ここに今日の貪欲の罪が戒められています。しかも大事なことは、この貪欲の罪などが実は偶像礼拝から来ているとパウロが指摘している点です。
ところで、偶像とは何でしょう。預言者イザヤは、「人間は木を刻んで像を作りそれを『神だ』と言って拝む」と語っています。木を刻んで作った物は当然、木に変わりなく、決して神さまではありません。交わることもできませんし、モノ言うこともありません。ですから偶像礼拝の宗教観とは「一方的に私の方から神さまに対してお願いするだけ」となります。道端のお地蔵さんが口を利いて、「あなたはもう少し悔い改めたほうがいいよ」とは決して言いません。耳の痛いことは一切言わないわけです。つまり、偶像は私たちに嫌なことや耳の痛いことを言わないのです。その代わりに、神に造られて私たちが一番必要とする「人格的な愛」も与えてはくれないのです。当然、次に起こることは何かと言えば、心の虚しさ、空虚さです。そして、その空虚さを埋めようとありとあらゆる物をその穴めがけて投げ込んでいく。ある人にとってはお金を貯める事が一時的に虚しさを忘れさせることになるかもしれません。ある人にとってはセックスであったり、ある人にとっては仕事だったり、ある人にとってはお酒やギャンブルであったりする。色々な人がありとあらゆる物をもって心の隙間を埋めようとしますが、残念ながらその虚しさは消えません。心の隙間は本来、その創り主なる神さまだけしか満たすことのできない隙間だからです。
世界的大富豪だったジョン・D・ロックフェラーにまつわる有名な話があります。ある記者会見で、「自分は本当は幸せではなく、満足もしていない」と話したところ、ある記者から「では、あとどれほど、お金を持てば幸せで満足しますか」と質問がありました。ロックフェラーはどう答えたと思いますか?「あともうほんの少しあれば」と答えたそうです。心や生活の中から神を締め出してしまおうとする時、それだけでは決して終わらない。先週、悪魔は隙を伺っているとお話しましたが、神さまが締め出された後の心や生活のスペースが、正に悪魔が働く場となるから怖いのです。具体的には、神以外の物で自分を満たそうとする。「自分、自分」という極めて自己中心的な生き方が始まり、何かを手にするとそれに依存し、「もっと、もっと」と禁断症状すら起こす。何故なら真の神さまを神としない人間は、心の虚しさのゆえに、神でないものを神とせざるを得ないからです。これが偶像礼拝です。
元々は必要なもの、本来、良いものであったとしても、神さまの代用となっていくときに、それはれっきとした偶像でしょう。お金や仕事や学業、アルコールや賭け事、そしてセックスなどが、神のような存在になり、自分を満たし自分を慰めること自体が生きる目的となってしまう。傍から見ると極めて「自己中心」、しかも〈どこにエネルギーがあるのか〉と思えるほど「もっと、もっと」と要求の仕方は貪欲なのです。逆に言えば、それだけ「心の渇き」が強いから。どうしようもない悪循環、まさに地獄です。

Ⅳ.どこから始めるか

では、偶像礼拝の悪循環を断ち切るために、どこから始めるべきなのか。結論から言えば、自分のことから始める。それも物事を語る、この私の口から始めるようにと、ここでパウロは不思議なことを勧めています。3節をご覧ください。「あなたがたの間では、淫らなことも、どんな汚れたことも、貪欲なことも、口にしてはなりません」。そう語った上で、さらに続けます。「むしろ、感謝の言葉を口にしなさい。」私たちの口/唇自体も神からの賜物なわけですから、「ふさわしくないもの」から離れ「むしろ、感謝の言葉を口にしなさい」と言うのです。神さまの恵みを数え感謝し、賛美するところから始めなさい。その口で御言葉を読み、祈ることから始める。主の恵みを証しするところから始めていきなさい。それが貪欲の罪の予防となり、そこから解き放つ生き方となるのだとパウロは教えています。なぜなら、悪魔に隙を与えない。神さまが働くスペースを確保するからです。
エジプトから出た奴隷の民はエジプトの偶像礼拝の奴隷状態から解放されて、たとえそこが荒野であったとしても、まことの神さまを礼拝する自由な民になりたい、と心から願ったことです。神さまを心の中心に迎え入れる時に、私たちは解放されるのです。
私を取り巻く環境は変わらないかもしれません。でも私自身が神さまとの関係において、全く変えられた新しい存在とされている。そこから、神さまの愛で本当に満足した、神に愛された神の子としての生き方が始まっていくのであります。
お祈りいたします。