和田一郎副牧師
申命記18章15-22節
マルコによる福音書9章2-10節
2022年3月27日
Ⅰ.「人のこと」から「神のこと」へ
今日の聖書箇所は、イエス様の伝道活動が一つの方向転換になった箇所です。それまでイエス様は病人を癒やしたりして奇跡を行ってきたのですが、弟子たちは、はたしてこのイエス様は何者であるのか、明確ではなかったのです。イエス様が言われるように神の国の到来が近いと感じつつも漠然としていたのです。果たしてイエス様が何者で、自分達の活動がどこに向かっていくのかはっきりしていませんでした。イエス様の存在が明確になるには、十字架、復活、ペンテコステの出来事を経験していかなければならないのですが、今日の箇所も一つの転換期になっています。
一つ前の章、8章29節で「あなたがたは、私を何者だと思うのか?」という問いに、ペトロは「あなたは、メシアです」と答えました。メシアとは油そそがれた者という意味です。かつてダビデ王も、神様に油注がれた者として特別に聖別されたイスラエルの王でした。おそらくペトロのメシア像とは、そのようなイスラエル民族を導くユダヤの王のようなイメージだったのでしょう。しかし、それはあくまでも人としての権威でした。イエス様は「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と言われたのです。「神のこと」「人のこと」ここが一つの転換点です。「人のこと」ではなく「神のこと」です。 イエス様は続けて9章1節で、ここにいる者は、神の国が力に溢れて現れるのを見ると言われ、それから1週間ほどが経ったのが今日の聖書箇所です。
Ⅱ.イエスの姿が変わる
2節、六日がたちました。イエス様は弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登られました。「すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、衣は真っ白に輝いた。それは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった」のです。いつも一緒に旅をして寝食を共にしていたイエス様が別人のように輝いたのです。さらにエリヤとモーセが現れて語りはじめた。モーセは創世記や出エジプト記など、モーセ五書といわれる、書を書いた人物です。エリヤも旧約聖書の預言者の代表です。つまり旧約聖書の預言を成就する方としてイエス様が話しているのを弟子たちは見たのです。そこに雲の中から声がしました。「これは私の愛する子。これに聞け」という天からの声です。ペトロたちは、この時に初めて天からの声を聞いたのだと思います。人からの声ではなく天からの声が「これは私の愛する子」と言った、そして「これに聞け」と言ったのです。
弟子たちは慌てて見回すと、そこにはイエス様が一人立っておられました。
これまで一緒に過ごしてきたイエス様が、この世のものと思われない姿で、旧約聖書の預言者と話しをしている。天の声が「これは私の愛する子」と言われた。これまで「人のこと」を思っていた弟子たちに、「神のことを思いなさい」と教えたイエス様は、人であると同時に神の子メシアです。このイエス様の言葉を聞きなさいと、天の声はメシアについて明確に示されたのです。
Ⅲ.神の性質に触れる
二性一人格という言葉があります。イエス・キリストは「神の性質」と「人の性質」の二つの性質をもたれる方です。100%「神」であり100%「人」です。
そのことが今日のこの短い出来事の中に描かれています。イエス様は人として三人の弟子を山に連れて行く、山に登ると姿が変わり神としての姿をまとってエリヤ、モーセと語りあっています。そこで天からの声が「これは私の愛する子」と、神の性質(神性)がはっきりと示されました。その後「イエスだけが彼らと一緒におられた」といって、再びいつもの人としてのイエス様が描かれています。この出来事は「六日の後」とありました。9章1節でイエス様が、ここにいる人が「神の国を見る」と言ってから六日です。それはおよそ一週間で、毎週日曜日の主日礼拝に行くことを指しているかのようです。一週間ごとの礼拝に山を登るように教会へと行って、旧約聖書・新約聖書に語られている「これを聞け」と説教を聞くわけです。ペトロたち三人の弟子たちは、山で礼拝に与るような恵を体験したのです。
9節以降には、礼拝の帰り道、イエス様と弟子たちが、今見たことを語り合っている様子があります。イエス様の言葉を心に留めて、復活のことを話し合いました。ペトロたちは礼拝によって心のどこかに変化が起こったのです。イエス様の姿が変わったように、人知を超えたイエス様の神という超越性に触れると、人の心の何かに変化をもたらします。1節でイエス様が、ここにいる人が神の国が力に溢れて現れるのを見る、つまり「神の国を見る」とおっしゃったのですが、それがこの山上で起こった出来事です。ペトロは「ここにいることは素晴らしいことです」と、神の超越性に触れた礼拝の素晴らしさを告白しています。力に溢れる神の国、それが礼拝です。わたしたちの信仰生活の中心である主日の礼拝は、私たちに変化をもたらす素晴らしいものです。
しかし、この2年は礼拝に集うことが難しい2年間でした。神の国を味わうことが難しかったのではないでしょうか。コロナウイルスによって教会に行かない日曜日を過ごすことが増えました。オンラインだけの礼拝の日々が続きました。今日の聖書箇所にイエス様と弟子が「高い山に登られた」とありますが、教会が「高い山」になっている人が多いのではないでしょうか。家にいた方が見やすいし、聞きやすいし、移動もしなくていいから、教会という山が高く感じてしまっているかも知れません。特別な事情を補う意味でのオンライン礼拝は必要なのですが、神の呼びかけで人が集まるというのが、「エクレシア」(ギリシャ語)という教会の本来の意味です。コロナが収束した後の課題として、教会に集うこと、礼拝の意味を見つめ直す必要があるように思いました。
Ⅳ.「出ておいでよ」
金曜日のノア会という集会で作家、三浦綾子さんの代表作『氷点』の話をしました。小説の主人公の名前は陽子といいます。小説の最後の所で陽子は自殺を図ってしまうのです。当時、この小説は新聞に連載されていて「陽子を死なせないでくれ」という投書が殺到したそうです。小説では陽子の命はなんとか食い止められたのですが、それは投書とは関係なく著者は陽子の命を亡くしたくなかったそうです。実は三浦綾子さんの実の妹の名前が陽子なのです。妹の陽子ちゃんは6歳の時に結核にかかって容態が悪くなった時、当時13歳だった三浦綾子に「お姉ちゃん、陽子死ぬの?わたし死ぬの?」と呟きながら死んでいった。姉の綾子さんは胸が潰れるような痛みを拭い去ることができなくて、妹への愛おしさのあまり幽霊でもいいから陽子に会いたいと思って、家の近くの暗い所に行っては「陽子ちゃん出ておいで」と呼んでいたそうです。
妹に出て来て欲しい、その思いが小説の中に織り込まれていたそうです。「出ておいで」というのは三浦綾子さんの口癖のようなものだったそうです。小説家になる以前は小学校の先生をしていました。教え子のある生徒が学校に行けなくなった時期があったそうです。その子の家へ三浦綾子先生が大福餅を持ってやって来て「出ておいでよ、学校に出ておいでよ」と言ってくれたそうです。教会で家庭集会に誘う時の口癖が「家庭集会があるから、出ておいでよ」と誘っていた。
三浦綾子さんは結核にかかり13年も闘病していました、まさに病室にこもっていたのです。そこに、あるクリスチャンの男性がやって来てキリストと出会わせてくれた。まさにそれは三浦綾子にとって、神様からの「出ておいでよ」の声でした。
わたしの妻にも『氷点』にまつわる話があります。妻は中学生の時バスケット部に入っていてキャプテンだったのです。自分はバスケット部のキャプテンという責任感とアイデンティティが強すぎて、部活が終わった中学3年の時バーンアウトしてしまって、生きる意味を見失ってしまったのです。そんな時、家でお姉さんが持っていた本を、ふっと手に取って読んでみた、それが小説『氷点』で「そうだ部活に夢中で、最近教会に行っていなかったから、また教会に行こう」と立ち返ったというのです。また教会に行こうとしたきっかけが『氷点』でした。それが妻にとっては、バスケが終わったら教会に「出ておいで」という呼びかけだったのです。
Ⅴ.礼拝の恵み
ペトロとヤコブ、ヨセフの三人は、山上でイエス様の姿が変わる様子を目の当たりにしました。それは旧約の預言がイエス様によって成就するという素晴らしいものでした。「これは私の愛する子、これに聞け」という言葉に従って御言葉の真理を受け取る礼拝を体験したのです。人としてのイエス様との関係から、神としてのイエス様に触れる転換点となりました。その礼拝の帰り道、三人はイエス様を囲んで御言葉を分かち合いました。そして次の一週間の生活の場へと遣わされて行くように、山を下りていきました。
今日は礼拝についてイエス様の変容の出来事を分かちあってきました。神様の求める礼拝というのは、頭や心の中だけのことではありません。神様からの「出ておいで」という呼びかけにこたえて、この体で献げていきたいと思うのです。最後に使徒パウロの御言葉を分かち合って終わります。
「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによって あなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる 聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかを わきまえるようになりなさい」(ローマの信徒への手紙12章1‐2節)
お祈りをいたします。