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主日共同の礼拝説教

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受難節第5主日
松本雅弘牧師

ルカによる福音書15章1-7節
2022年4月3日

Ⅰ.徴税人と罪人

今日から春の歓迎礼拝が始まりました。今日、初めてキリスト教の礼拝に来られた方、初めて聖書の言葉に触れた方もおありかと思いますが、心から歓迎いたします。
私も中学生の時に初めて聖書を買いました。神田に三省堂という本屋がありましたが、そこに行くと入り口の一番近いところのショウウィンドウに並べてあったのが聖書で、そこに行くたびにいつも気になっていました。そして、ある日、「買おう」と心に決めてお店に行きました。ところが、聖書を見ましたら、旧約聖書と新約聖書が一冊になったものと、新約聖書だけのものと二種類ある。どういうわけか私は、旧約聖書は、旧教、すなわちカトリックの聖書、そして新約聖書は、学校で新教と習っていましたので、プロテスタントの聖書と思い、「旧教で行くか、新教で行くか」と、自分で勝手に勘違いして、そんな大きな問いの前に立たされ、聖書一冊買うのにドキドキしたことを今でも覚えています。結局、「今、結論は出せない」と思って、ひとまず旧約聖書と新約聖書の両方が一緒になっているものを購入したのです。でも、買ったことでほっとしてしまって、そのまま読まずに、しばらくの間、本棚に置いたままになってしまいました。
聖書の中に、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つひとつの言葉によって生きる」という有名な言葉があります。肉体を維持するのに糧が必要なように、私たちの心にもエネルギーとなる糧が必要です。この歓迎礼拝に参加することで、私たちにとっての大切な心の糧である聖書の言葉に触れ、神さまから生きる力をいただけたら、どんなに幸いかと思います。
さて、先ほどの続きですが、一大決心して購入した聖書でありましたが、中学生のときは、もうそのまま本棚に飾ってあるだけでした。でも、高校生になったとき、初めて聖書の言葉と真剣に向かい合うことを始めました。それはきっかけがありまして、学校での生活が思うように行かなくて、毎日、何か虚しいものを感じながら過ごしていたからです。「自分なんかいてもいなくてもよい」と真剣に思いましたし、悩みました。この「自分なんか、いてもいなくてもよいのではないか?」という心の奥底にある問いかけに対して、はっきりと「そうではない!」とのメッセージを伝えているのが聖書の言葉、神の言葉であると思います。
今回の歓迎礼拝では、新約聖書の中のルカ福音書の15章に出てくるイエス・キリストの譬え話から、御言葉に込められた神さまの私たちに対する熱い思いをお伝えできたらと願っています。その熱い思い、それは、「あなたがいなくなったら、あなたを捜す方がおられる。いや、今、すでに捜されている」とある牧師は語っていましたが、まさにそれが、神さまの熱い思いであり、この歓迎礼拝でお伝えしたいメッセージです。
ではルカ福音書15章1節から3節をご覧ください。1節に「徴税人」という言葉が出てきますが、徴税人は、当時、ユダヤを支配していたローマ帝国の手先となって、同胞のユダヤ人から税金を徴収する人のことです。ですから、そうした徴税人を当時は、十把一からげにして「罪人」と呼んでいました。2節の不平の言葉の中に、「罪人」しか出てこないのは、そうした背景があります。そうした人々が、話を聞くためにイエスさまの周囲に集まってきていたのです。
何故でしょう?イエスさまは相手にしてくださったからです。世間の人々は、徴税人や罪人とレッテルを貼られた人々を、相手にしないのですが、イエスさまだけはちがっていた。彼らがイエスさまと接する時に、「自分はこの方から相手にされている。いや、この方は私に関心を持って下さっている」。そうしたことが、彼らには、ちゃんと分っていたのです。そして私たち誰でも、関心を寄せてもらえると生きることができます。イエスさまというお方は、そのように私たちと接せられるお方なのです。

Ⅱ.不平

さて、そこに「ファリサイ派の人々や律法学者」と呼ばれる人々がいました。当時の宗教指導者、社会のリーダーたちです。その光景を見ていた彼らが不平を言ったのです。どんな不平不満を言ったのでしょう。
一つは、イエスさまが、自分たちが罪深いと見定めた人々と共にいること、ましてや食卓を囲むことなどは、律法に照らし合わせて絶対にあってはならないことだと考えていたことです。二つ目は、イエスさまを、神さまによる罪の赦しが簡単に与えられると吹聴する説教者だと決め付けていたことを挙げることができます。

Ⅲ.「見失った羊」の譬え

さて、こうした頑ななファリサイ派の人々や律法学者の硬い心を解きほぐすかのように、身近な出来事を例にとりながら譬えをお語りになったのです。それは一匹の羊を失くした羊飼いの譬えです。
ここでイエスさまは、見失った一匹の羊を捜し求める羊飼いとして、神さまのことを教えています。迷子になったこの羊は、どちらかというと自分の失敗の故に、自分の愚かさの故に、迷子になってしまいました。自業自得と言われてもしょうがないでしょう。しかし、羊飼いからしたら、その羊は、「見つけ出すまで捜し歩くほど」、いなくなっては困る尊い存在なのです。
ある人は、「百匹いるから、一匹くらいいなくなってもいいではないか。百分の一に過ぎないのだから」と言うかもしれません。聖書の別のところを読んでみますと、当時のユダヤの羊飼いは、羊一匹一匹に名前をつけて、自分の子どものように大切に養い育てている姿が出て来ます。私たちに当てはめて言うならば、ペットのような存在です。
私もペットを飼って初めて知ったのですが、明らかに家族の一員です。ましてや野宿しながら移動生活をしている羊飼いと羊たちは、まさに運命共同体のような関係でしょう。「その羊が一匹でも欠けてしまえば、見つけるまで捜すでしょう」とイエスさまは言われるのです。そこに居合わせたユダヤの人々は皆、うんうんとうなずいたと思うのです。

Ⅳ.見失われたものの大切さ―「あなたは高価で尊い」

いかがでしょうか。一人の人が失われる。一人の人が居なくなる。それは神さまからしますと大きな喪失、そして痛みが伴う悲しみだ、とここでイエスさまは、そうおっしゃるのです。そして仮に、その人が回復されたならば、それはとてつもなく大きな喜びなのだ、と言われるのです。
もう少し考えてみたいのですが、ここでイエスさまが仰っているのは、見つかるまで捜し求める羊飼いは、羊一匹を貨幣に換算し、一匹分の財産を失って損をしたので悲しんでいるのとは違い、ただ、そのまま、その羊が羊飼いからしたら、かけがえのない存在、大切な宝物だから失って悲しんでいる。つまり悲しみの理由は、その羊に対する羊飼いの思い、神さまの愛の心なのです。
先ほどお話しましたが、若い頃、私は、「自分なんて、居ても居なくてもいいのではないか」と真剣に思い悩んだことがありました。その時のことを振り返ると、「そうではない!」としっかり否定してくれる言葉が欲しかったのだと思います。
今日の譬え話、そして今月、一つひとつ読んでいく譬え話を通して、イエスさまはこれでもか、これでもかと、「自分なんて、居ても居なくてもいいのではないか」と言う心の叫びや諦めの思いに対して、「そうではない!そうではない!あなたは、神さまから捜されている、尊い存在なのだ」と訴えているのです。
「自分なんて」と思う時、価値のない私が何で生きなければならないのか、と思うことがあります。それに対して聖書は何と言うかと言えば、「神さまに捜されているから、生きなければならない」というのが答えです。聖書は、その神さまを信じるように、それが本当に生きる上で力になることを説いています。
聖書の教える神への信仰とは何でしょうか。ある人が言いました。「信仰とは、この自分も捜されている、主イエス・キリストによって神の愛のうちに捜されているのだということを認めること、受け容れることだ」と。
自分を振り返る時、自分は神からほど遠い生活をしている、とお感じになる方があるかもしれません。また、自分が身を置いているところには神さまなどやって来てはくれない、と言われるかもしれません。いや、実際に洗礼を受けた後でも、何度も何度も神さまが分らなくなることもあるでしょう。
でも、そんな時に、ぜひ、今日のイエスさまが語られた物語、譬え話を思い出していただきたい。私を捜し続けておられる神さまがおられるということ。いや、今、そのお方は私を捜しておられるということ。ぜひ、このことを心に留めていただきたいと願います。
お祈りします。