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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

あるがままの私を

<受難節第6主日>
松本雅弘牧師
ルカによる福音書15章8-10節
2022年4月10日

Ⅰ.はじめに―「残りの日々を数えるすべを教え」

今日は歓迎礼拝ということで旧約聖書からの朗読はしなかったのですが、でも、一か所、旧約聖書の言葉にふれてから、今日のお話をしたいと思います。詩編第90編です。
「あなたは人を死の眠りに落とされる。/人は朝に萌え出づる草のよう。朝には咲き誇り、なお萌え出づるが/夕べにはしおれ、枯れ果てる。」(5-6)とあります。ここで詩人は、しみじみと、私たちの人生のはかなさを歌っています。さらに、9節の後半から10節には、「私たちは吐息のように年月を終える。私たちのよわいは七十年/健やかであっても八十年。/誇れるものは労苦と災い。/瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。」とあります。
つまり「うつろいやすい」だけではなく「吐息のように、ため息のように」あっという間に七十年、八十年経ってしまう。それが、この詩編90編を書いた詩人の実感でした。あっという間に過ぎてしまう人生ですから、詩人は真剣になって神に祈りを捧げるのです。その祈りが、12節、「残りの日々を数えるすべを教え/知恵ある心を私たちに与えてください。」です。
今日は、2022年4月10日です。考えてみれば、今日は、私の残りの生涯の最初の日です。しかも、私の人生の中で一番若い日でもあります。明日になったら一日、歳を取ってしまうわけですから…。でも心配なさらないでください。明日になりましたら、明日が私の人生の中でもっとも若い日であり、残りの人生の最初の日です。「残りの日々を数えるすべを教えてください/生涯の日を正しく数えるように教えてください」という祈りは、まさに今日、この日を、どのように受け止め、どのように生きるかを教えてください、という祈りです。実は、この祈りに応えてくれるのが、聖書に出てくる知恵であり主イエスの教えなのです。今日も、人生の日を正しく数えることができるように、悔いのない日々を送るための知恵の言葉をいただきたいと思います。

Ⅱ.背景

当時のユダヤ社会にあって、「罪人」扱いされていた徴税人等と共に時間を過ごしていた主イエスを見た、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、主イエスを指さし、「この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている。けしからん!」と非難していたというのです。そこで主イエスは、そうした彼らに対し立て続けに三つの譬え話を話されました。それが先週の「見失った羊の譬え」、今日の「無くした銀貨の譬え」、そして、「いなくなった息子の譬え/放蕩息子の譬え」でした。では「無くした銀貨の譬え」を共に読み進めていきましょう。

Ⅲ.無くした銀貨の譬え

あるところに、一人の女性がいました。十枚の銀貨を持っている女性です。ところが、どういうわけか、大切な銀貨の一枚を無くなってしまったのです。
すると彼女は本当に必死になって無くした一枚の銀貨を捜し始めます。薄暗い家の中でしたので、まず灯りをともし見つけようとします。次に、ほうきを引っ張り出してきてテーブルがあればそれをどかし、箪笥があれば、その下にほうきを突っ込んで掃き出そうとします。つまり、灯をともして目で捜し、ほうきを手に持って、そこいら中を掃きながら、ひょっとすると無くなった銀貨がほうきの先にひっかかるかもしれない。そして「チャリン!」と音でもしないかと、手と耳に神経を集中して捜すのです。そうです。全身を使って見つけるまで念入りに捜すのです。何故、ここまでするのでしょう?
ところで、このドラクメ銀貨ですが、一デナリオンの価値があると言われます。労働者一日分の賃金に相当する額です。だとすれば、結構な値打ちです。無くしたら、当然、探します。ただ、ここまで必死になって捜す理由が実はもう一つありました。当時、ユダヤでは、花嫁が嫁いでいく時に、十枚のドラクメ銀貨を髪飾りのように用いたと言われます。そう考えると、今でいう結婚指輪のようなものだったかもしれません。
私も、この指輪、丸38年もはめています。結婚当初はピカピカでツルツルで、とても綺麗でした。しかし今はもう表面はザラザラで光ってはいません。でもどうでしょうか。「新しいものと交換しよう」と思うでしょうか。「買った時と同じ値段で引き取りますから譲ってください」と言われて手放すでしょうか。そうしない。いや出来ないと思います。あの時、あの場面で交換した指輪であることに価値があるからです。つまり、他のもので代用することはできないものだからです。
彼女にとって無くした銀貨も同じでしょう。「あと九個残っているし」と気持ちを切り替えることなどできません。十個揃っていて初めて意味がある。いや、一つひとつに、今まで歩んで来た、その日々を象徴するような品物だった。だから彼女は必死になって捜しているのです。

Ⅳ.見出される喜び

ところで、説教の準備をしていて興味深い発見がありました。3節に「イエスは次のたとえを話された」とありますが、この「たとえ」と訳されたギリシャ語の言葉が単数形で書かれているのです。厳密に訳すならば「次の一つのたとえ」となります。このため専門家の間では3節の「次のたとえ」とは、「見失った羊の譬え話」だけを指すのか、それともその後に続く二つの譬え話も含むのかと議論が分かれています。ただ私は、この「一つのたとえ」という「一つ」ということにヒントをいただいたように思ったのです。
実は、先週の「見失った羊の譬え話」の中の「見失う」という言葉、「アポルーミ」というギリシャ語ですが三つの譬え話に共通して使われていることが分かりました。今日の8節では「無くした」という言葉が「アポルーミ」、放蕩息子の譬えの中では24節の「いなくなっていた」と訳されている言葉が「アポルーミ」です。三つの譬えそれぞれに出て来る単語です。
数学的に考えるならば、最初は百分の一の価値、無くした銀貨は十分の一の価値。そして最後の譬えでは、二人兄弟の物語ですから二分の一の価値となることでしょう。しかし、その分母が大きい小さいにかかわりないのです。「多くの中の一つ」「幾つかある中の一つ」、英語で言えば、「ワン・オブ・ゼム」ではない。そうではなく、私たち一人一人は神さまの目から見たら、見失ったり、無くなったり、いなくなったり、すなわち「アポルーミ」されては困る、掛け替えのない宝物、「オンリー・ワン」。そのような存在なのだ、ということを共通して伝えようとしている。ですから、捜し当てた神さまは大喜びなのです。
そしてもう一つ、この銀貨が見つかった時、どのような状態で見つかったでしょうか。見つけられる前に、お風呂に入って、シャワーを浴びて、綺麗になってから見つけて欲しいと、銀貨がそう思って小奇麗にしていたでしょうか。そんなことはありません。今日の説教のタイトル「あるがまま/そのままの姿」で見つかったのです。当時のユダヤの家の床は「石地」ですから埃だらけ、真っ黒だったと思います。
神さまは、ここにいる私たちを捜しておられる。それも必死になって!私たちが探し求める呼び掛けの声がする方向に向き直った時、そこに居てくださるお方の懐に、あるがままの姿で飛び込んでいけばいいのです。
水野源三、という名の詩人がいました。「まばたきの詩人」と呼ばれていました。その源三の詩の中で、私自身大好きな詩があります。
たくさんの星の中の一つなる地球/たくさんの国の中の一つなる日本/たくさんの町の中の一つなるこの町/たくさんの人間の中のひとりなる我を/御神が愛し救い/悲しみから喜びへと移したもう
源三は九歳の時に赤痢にかかり、高熱で脳性まひになって、見ることと聞くこと以外の機能を全部失ってしまいました。しかし十三歳の時、自分を捜しておられる神さまの呼びかけに気づいたのです。それ以来、お母さんの作った、「あいうえお」の書かれた「50音表」を、まばたきで合図しながら、一つずつ言葉を拾いながら詩を作りました。
たくさんの星の中の一つなる地球/たくさんの国の中の一つなる日本/たくさんの町の中の一つなるこの町/たくさんの人間の中のひとりなる我を/御神が愛し救い/悲しみから喜びへと移したもう
源三は、どうにもならない《自分の小ささ》という自分のありように、圧倒されていたのだと思います。でも、そのような自分をあるがままに愛して捜し出してくださった神さまに出会い、心の中の悲しみが大きな喜びへと変えられていくことを経験した。そんな時に歌った詩がこの詩なのです。
私たち誰もが、神さまに捜されている、神さまの宝物です。そのお方に出会う時、初めて百分の一、十分の一に過ぎない私ではなく、掛け替えのない私であることを知らされるのです。
お祈りします。