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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

生きる意味ってなんだろう

和田一郎副牧師
ルカによる福音書15章11-24節
2022年4月24日

Ⅰ.はじめに

イエス様は今日の聖書箇所で「神様がどんな方なのか」それを譬え話しで教えてくださっています。 今月の歓迎礼拝ではルカ福音書15章から、3つの譬え話を続けて見てきました。3つに共通しているテーマは「あなたがいなくなったら、熱心に探してくださるのが神様。そして見つかったら心から喜んでくださる。聖書の神様はそのような方ですよ」と、イエス様は伝えているのです。
今日の譬え話しは、とんでもないドラ息子でも、いなくなったら神様は探してくださっている、自分にそっぽを向いて、どこかに行ってしまっても、また自分のもとにもどって来ることを諦めない、そんな神様の性質が描かれています。また、この話には二人の息子がでてきて、前半と後半に分けることができます。今日は前半だけをお話ししますが、前半は弟、後半は兄を通して、わたしたち人間が自己中心的な罪の性質をもっていることが短い話の中に織り込まれています。

Ⅱ.放蕩息子のたとえ話

弟は、とんでもないドラ息子で、兄は父の仕事を手伝う真面目な人でした。ある日弟が言うのです「お父さん、私に財産の分け前をください」と。まだ元気に働いている父親がいるのに、関心があるのは父が死んだ後に分けられる遺産のことでした。それを先に欲しいという。失礼なことを言う、とんでもないドラ息子だと思うのです。しかし、彼の姿は私たちの姿と重なるのではないでしょうか。私たちは、心の底で自分の人生は自分のものだと思っています。だから自分の思い通りにして何が悪いだろうと思いながら生きています。しかし、聖書は天地万物を造られた神様が、わたしたちひとり一人を造られたと告げています。わたしたちは自分の力や意思で、この世に生れてきたのではありません。人生における時間も、出会いも、神様に与えられた物です。しかも、いつかこの世の人生は終わってしまう、神様のもとに帰る時がくるのです。ですからこの地上の人生は神様から預かっている貴重な時間なのです。弟が父親に、「わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言いました。それは、神様から預かっている貴重な預かり物を自分勝手に使いたいという、人間の自己中心という性質を表しているのです。
しかし、この父は弟息子の望み通りに財産を与えるのです。すると彼は、それを全部お金に換えて、父のもとを離れて、自分勝手に生活しはじめたのです。
彼はそこで放蕩をつくして、一文無しになってしまい、ついに豚の世話をするようになりました。豚の飼育というのはユダヤ人にとって最もしたくない仕事の代表です。弟はどん底の生活まで落ちてしまったのです。その時、彼には友達が一人もいませんでした。お金があった時には、いろんな人が集まってきました。しかし、お金もなく、家畜の世話で食いつなぐ生活をしている彼を助けようとする友は一人もいなかった。そこまで追い詰められた時、彼は「我に返った」とあります。自分は取り返しのつかないことをしてしまった。自分が本当に生きることのできる場所はあの父の家だった。父の所に帰ろうと決意します。しかし、今さら帰っても門前払いで、「お前など息子ではない」と言われるかも知れない。自分は息子と呼ばれる資格はない、だから雇い人の一人にしてください、とでも言おう、もうそうする他ないと思ったのです。弟息子は身も心もボロボロになって帰って行きます。
一方で、彼の姿を、まだ遠く離れていた父は見つけました。そして走り寄って来た。首を抱き接吻したのです。「まだ遠く離れていたのに見つけた」ということは、この父がいつも息子の帰りを待っていて、常に息子が出て行った方角を、見つめていたと分かるのです。そんな慈愛に満ちた父のもとに帰ることができた。父は弟息子のために良い服を着せ、靴を履かせ、美味しい食事の用意をしてくれます。そのようにしてくださるのが聖書の神様です。天地万物を造られた唯一の神様は、私たちのことを、いつも待っていて下さり愛する子として歓迎して下さる。神様の愛に触れた時、そこに私たちの救いがあります。この神様の愛の中で生きる時、人生は変わっていきます。
この聖書箇所には見出しに「いなくなった息子」とあります。「いなくなった」というのは「神様のもとから離れている」という意味なので、まだ神様を信じていない、信仰をもっていない人のことも含めて、いつも探してくださり、神様のもとに来るのを、まだかまだかと待っていてくださる、帰ってきたら温かく迎え入れてくださる神様です。この放蕩息子の話を読んで、神様の愛の大きさ、憐れみ深さを知って欲しいというのが、この譬えを話された、イエス様の思いなのです。

Ⅲ.『赤毛のアン』

わたしが最近読んでいる本の主人公も、神の愛に触れて人生が変わった人だと思いました。それが小説「赤毛のアン」の主人公のアンです。数年前に「花子とアン」という朝ドラが話題になりましたが、赤毛のアンを書いた、著者モンゴメリという人は、厳格なクリスチャンの祖父母に育てられ、後に牧師と結婚した人です。牧師夫人として教会学校で聖書を教え、多忙な教会奉仕をしながら「赤毛のアン」シリーズを書いた人なので、物語の中にはキリスト教の要素が沢山あります。「赤毛のアン」の主人公アン・シャーリーも、神様の愛に触れて人生が変わった人だと思います。
アンは生れてすぐ両親を病気で亡くしてしまって、孤児院で育ちました。孤児院の生活はひどいもので、愛を感じる家族的な関係もなく、教会や信仰とも無縁の生活でした。神様から見れば、放蕩息子がどん底にいた時のような環境で育ちました。アンが11歳の時、カナダのプリンスエドワード島に、マシュウと、その妹のマリラという年老いた兄妹がいて、二人は畑仕事を手伝ってくれる男の子を養子にしようと考えていました。ところがちょっとした手違いで、やってきたのは、11歳の赤毛の女の子、アンでした。最初は孤児院に返そうと思っていたのですが、極端に恥ずかしがり屋で口下手なマシュウは、アンの明るさ、率直なおしゃべりに、何か惹かれるものを感じて、アンを家族として受け入れるのです。
アンはそれまで、ありのままの自分を受けいれられることがありませんでした。ですから自分が自分でいるために想像力を働かせて、よくしゃべりました。赤毛のことをからかわれると、猛然と立ち向かいました。でも年老いたマシュウはありのままのアンを受けいれたのです。マシュウと妹のマリラは、町にある長老教会の信徒でした。アンに「この家にいる間はお祈りをしなければなりませんよ」と言って、形式を気にせず自分の言葉で祈ることを勧めたのです。はじめて祈ったアンのお祈りが、「・・・二つだけ大事なお願いを申し上げます。どうか私をこの家に置いてください。それから私が大きくなったら美人にしてください。かしこ。あなたを愛するアン・シャーリーより」と祈るのです。クリスチャンでしたら、「かしこ」ではなくて「アーメン」と言わなければいけないところなので、聞いたマリラはビックリするのですね。「この子はお祈りもしたことがないのか?」と。アンの祈りはいつも率直でした。そして、マリラは「主の祈り」をアンに教えて、アンはそれを気に入って暗唱できるようになっていきます。
赤毛のアンの第1巻は、アンが11歳から16歳までの成長が書かれています。その中で著者モンゴメリは、アンがキリスト教の信仰によって変わっていったという描き方はしていません。孤児院では得られなかった「愛」を体験して変わっていった様子が描かれています。しかし、神様の愛は人を通して働かれるものです。神様はアンを探していたと思うのです。自分が自分でいるために、想像力の翼を広げてがんばっていたアンに愛を知ってもらいたいと働きかけていたと思うのです。プリンスエドワード島の町に来て、祈る人になって、神を愛する人たちの中で成長して欲しい。彼女はそれを受けいれました。なぜなら自分が、まず受け入れられたからです。アンは成長するにつれて以前の半分もしゃべらなくなり、大げさの言葉遣いもしなくなったのです。自分が、ありのままで受け入れられる幸せを知ったからです。
そんなアンにも悲しみの別れがやってきます。第1巻の終わりに、いつも静かに優しく受け入れてくれた、育ての父とも言えるマシュウが突然亡くなります。物静かなマシュウの愛情にはムラがなかった、いつも同じようにアンを受けいれる人でした。まるで放蕩息子を待つ父のような人、変わらぬ愛、父なる神様を思わせるような人でした。口下手でしたが、ありのままを受けいれる、それがマシュウの愛でしたが、その人を失ってしまった。それでも、ここまで成長してきたアンの心の中には、見えない将来に希望を持てる力がありました。信じるという心は、目に見えないものを受けいれる謙虚な心です。それがマシュウが残してくれた愛の力でした。次の将来に一歩踏み出そうとするアンはつぶやきます。「神は天に在り、この世はすべてよし」。最初に出版された村岡花子訳では、「神、天にしろしめし、世はすべてこともなし」という訳でした。「神様は天におられる、この世はすべてこともなし、すべてよし」。人生はいろいろあります。それでも神様は天におられる、この世はすべてこともなしと信じる人に、アンは成長していました。

Ⅳ.神の愛

ところで、放蕩息子のその後はどうなったでしょうか。最後は、「あの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか」と、父親が言って終わるのです。放蕩息子は、自分のことを受け入れて喜び祝ってくれる、父の愛に触れて変えられていったと思うのです。
神様の視点から見れば、放蕩息子も赤毛のアンも、神の愛から離れてしまっている者たちでした。神様はいつも探しておられる、神のもとに来るように待っておられ、彼らをありのままで受け入れてくださる、そのような神様であることを物語は表しています。
今月の礼拝は歓迎礼拝として、教会に初めて来られる方、ふだんは礼拝に来ていない方々を歓迎したいという思いでメッセージをしてきました。それはメッセージをする者だけではなく、教会員の皆さんの思いでもあります。しかし、誰よりもこの教会に来て下さる方を歓迎しているのは神様でしょう。その神様を一人でも多くの人に知っていただきたいと願います。
お祈りいたします。