松本雅弘牧師
イザヤ書55章8-11節
ヨハネによる福音書1章1-13節
2022年5月1日
Ⅰ.はじめに
コロナ禍が始まってから、マタイ福音書の終わりのところを読んだ後、とくに昨年は、「使徒信条」と「十戒」を礼拝では取り上げ、一通り学んできました。
今日から、礼拝では、ヨハネ福音書を御一緒に読み進めていきます。マタイ福音書を読むのに、7年半かかりましたので、読み終わるのに何年かかるか分かりませんが、章から章へ、節から節へと読み進めていきたいと思います。
Ⅱ.ヨハネ福音書の書かれた目的
さて、皆さんは、このヨハネ福音書をどのような印象を持って受け止めておられるでしょうか。聖書を手に取り、ヨハネ福音書を読み始めますと、不思議な世界に引き込まれていきます。福音書の書き出しが一種独特なのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」
明らかに他の福音書とは語り出しが違います。マタイ福音書やルカ福音書はクリスマス・ストーリーから始まりますが、このヨハネ福音書はいきなり、何か哲学的な表現(?)とも言うべきでしょうか、一種独特の語りをもって始めています。
ところで、家に、『志麻さんの自宅レシピ』という料理の本がありました。テレビでお馴染みの志麻さんです。彼女の手にかかると、家庭の中にある普通の食材が、超一流の料理に早変わりする。本をひらくと、美味しそうな料理の写真と共に、レシピが紹介されています。これは料理を作る時の参考にと妻が買った本です。またそうした人たちのために書かれたのが、この『志麻さんの自宅レシピ』でしょう。表紙を見ますと、「『作り置き』よりもカンタンでおいしい!」とか「忙しい人でもちゃちゃっと作れる、ほめられごはん」というサブタイトルのような言葉があります。
ところで、〈生きるとはどういうことなのか〉、〈イエスさまはどのようなお方なのか〉という問いをもって、志麻さんの、この本を手にする人はいません。料理の本は、料理を作る時に読むと、いちばん目的に沿う仕方で読めるものでしょう。実は、聖書を読む時も同じなのです。全体で21章から成っている、ヨハネ福音書はどのような目的をもって書かれたのか。その目的に沿って読むことは大事なことです。ちなみに、第5章にそのヒントとなる主イエスの言葉が紹介されています。
ヨハネ福音書5章と言えば、あのベトザタの池にいた38年間病で苦しむ人を癒すという奇跡を伝える聖書箇所です。主イエスが癒しの奇跡をなさった日がちょうど安息日だったことから、ユダヤ人との間に論争が起こってしまったのです。そのやり取りの中で主イエスはこんなことをおっしゃいました。
「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない。」(ヨハネ5:39-40)
この言葉を見ますと、聖書とは何かと言えば、「私について証しをするもの/証しをする書物」と言われたのです。
昔、聖書に書かれていることを、科学の教科書のように読み進め、その結果、科学的な真理と、聖書が語ろうとする真理、私は、「真実」という日本語を使った方がピンと来るように思いますが、それらが正面衝突し、とても不幸な結果をもたらしたことがありました。主イエスによれば、そうした聖書の読み方はちがうということでしょう。なぜなら、聖書は自然科学の教科書ではなく、私たちカンバーランド長老教会の「信仰告白」の言葉を使えば、「キリストを証言するための書」だからです。
主イエスははっきりとおっしゃっています。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ」(ヨハネ5:39-40)。ここでの主がおっしゃる聖書は旧約聖書ですが、主イエス・キリストにあって永遠の命をいただくために書かれた救いの書なのです。決して、科学の教科書ではありません。
もう少し書かれた意図について考えたいのですが、この福音書を読み進めていきますと、こういう御言葉に出会います。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ20:31)
ここに目的が述べられています。ナザレのイエスが神の子メシアであることを信じて欲しい、また、そのように信じて、イエスの名によって、神の与える命に与って欲しい。そのような祈りをもって書き綴られていったのが、この福音書である。そのことをまず確認させていただきたいと思います。
Ⅲ.「初めに言あった」
では、このような目的を持ったヨハネ福音書の書き出しの部分に注目したいと思います。ここでヨハネ福音書は、イエスさまのことを「言」、ギリシャ語では「ロゴス」という言葉を当てて証言し、さらに「言」はどのようなお方か、ということを語っています。説教の準備をしていて、改めて教えられたことがありました。それは、このヨハネの福音書の冒頭をギリシャ語から翻訳する時に、様々な苦労があったことです。
日本語に最初に翻訳したのが、ドイツ人宣教師のギュツラフでしたが、彼は「ロゴス」を「カシコイモノ(者)」と訳し、人格を持ったお方と訳しました。ちなみに、その次に古い訳は、ヘボン式ローマ字の開発者のヘボン・ブラウン共訳のヨハネ福音書で、「元始に言霊あり」と、日本訳では最初に「言」という語が当てたのですが、ここにも苦労がありました。普通の言葉と区別するために「言霊」と訳しました。そして、1879年(明治12年)のブラウン訳では、「ことば」という翻訳が継承され、1917年(大正6年)に出され文語訳聖書でも、「太初に言あり」と、まさに聖書協会共同訳聖書でこのまま採用している形になっています。
釜ヶ崎で日雇いの人たちと共に生きている本田哲郎神父が、「はじめから『ことば』である方は、いた。」と訳しています。このようにヨハネが「ロゴス」という語で示そうとする存在は、単なる霊とか無機的な存在でなく、「人格を持ったお方」なのだということでしょう。そして「言は神だ」と語り、しかも「初めに」とありますように天地創造の前から「言」なるお方はおられ、「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった」とあるように、創造の働きに共に参与しておられたのが「言」なるお方だ、と証言するのです。
では何故、このお方、つまり主イエスを「ロゴス/言」と表現したのでしょうか。実は、本日の旧約朗読箇所でイザヤは、神の言葉は言いっぱなしの言葉でなく、必ず実現し出来事となる言葉だと伝えていることにも注目したいと思うのです。さらに、福音書の続きを見ますと「言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった」と書かれ、命の源なるお方がロゴス、それがイエス・キリストである。これが、ヨハネ福音書がイエス・キリストを指し示す、証言の始まりです。
Ⅳ.御言葉ご自身である主イエスと出会う
ヨハネ福音書には心に響く名言がたくさん出て来る、とある牧師は語っていました。確かに、ヨハネ福音書を読み進めてまいりますと、心に響く御言葉に出会います。その代表的な言葉が、ヨハネ福音書3章16節。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」カンバーランド長老教会の「信仰告白」の冒頭に掲げてある御言葉も、このヨハネ福音書に出て来る聖句です。
カナの婚礼、サマリアの女性と主イエスとの出会い、ベトザタの池に横たわる病で苦しむ男との出会い、姦淫の現場で逮捕された女性を守り赦す主イエスのお姿。生まれつき目の見えない男を癒されるイエスさま、そしてヨハネ福音書は紙面のほぼ半分を割いて、受難週の教えと出来事を詳細に伝えています。そして十字架の前夜に語られる教えの中には、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(15:5)という御言葉や、16章33節に出て来る「イエスの勝利宣言」と呼ばれる聖句も有名です。その他にも心に響く御言葉、また暗唱しておられる聖句がちりばめられているのではないでしょうか。
これからこの福音書をご一緒に読み進めることを通して、私たち自身の日々の生活を導く、御言葉の光に出会えたらと願います。
そして何よりも「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)と語られた、御言葉そのもののお方である、主イエスと出会い、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである」(20:31)と約束なさった、御言葉ご自身である主イエスによって、豊かな命にあずかることができるように、共の祈り求めていきたいと願います。
お祈りします。