松本雅弘牧師
イザヤ書30章18-26節
ヨハネによる福音書1章1-13節
2022年5月8日
Ⅰ.はじめに
使徒ヨハネは、福音書の「プロローグ」にあたる書き出しで、「言」という語をもってイエス・キリストを証しし、そして「言」なるお方とは、吐く息のような無力、無責任な方ではなく、イザヤが言うように、必ず、神が望むことをなし、託したことを成し遂げる力と意思とをお持ちのお方であることを伝えています。今日も引き続き「プロローグ」にあたる箇所を御一緒に読んでいきたいと思います。
Ⅱ.光なる主イエス・キリスト
使徒ヨハネは、創世記の天地創造の記事を下敷きに福音書を書き始めていると言われます。「序」が終わり本論に入る最初に、「…ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたはどなたですか』と尋ねさせたとき」(19)と具体的な出来事が起こった時/日のことを語り始めます。そして29節に「その翌日」と書かれています。つまり19節の出来事の翌日ですから第二日目の出来事として語られています。さらに35節にも「その翌日」とあり第三日目のことです。そして39節に、「その日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである」という言葉に出会います。ユダヤの暦は夕方から一日が始まりますから、39節以降の出来事は第四日目のことを指すと考えられます。続く43節にも「その翌日」とあり第五日目の出来事です。
さて、第六日目への言及がないのですが2章1節で「三日目に、…」とあります。当時の日数の数え方は、最初の日を一日と数えますから「三日目」とは七日目のことです。このように使徒ヨハネは、福音書の書き出しで、主イエスの七日に渡るお働きに焦点を当てながら、遥か昔の天地創造の御業が七日にわたって成し遂げられたように、今まさに新しい創造の御業がイエス・キリストによって始められた、というメッセージを伝えようとしているのです。天地創造において強いご意思をもって「光あれ」と創造なさったこの世界を、これからも神は光をもって照らし導こうとなさった。しかも興味深いことに、4節までの出来事を過去形で伝える代わりに、5節では「光は闇の中に輝いている」と現在形で綴ります。天地創造の最初に、世界を照らした光が、そのときい以来、ずっとこの世界を照らし続けている。そして今現在も「光は闇の中に輝いている」のだと語るのです。
ところで、ここに「闇」という言葉が出て来ますが、今、世界を見渡しますと、本当に闇が覆っている現実があります。しかも、その闇をもたらしているのが、他でもない、私たちの心の闇でもあります。ウクライナで起こっていることも、ロシアとウクライナというよりも、プーチン大統領の心の闇がもたらした戦争ではないだろうか、と言われたりもしています。主イエスは心の闇を抱える私たちに、「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ7:5)と、心の闇に光を当てるようにとお語りくださいました。ですから、使徒ヨハネは語ります。「闇は光に勝たなかった」(5節)と。一見、闇の力が勝っているようなこの世界、光を圧倒するように見えるこの世界にあっても「闇は光に勝たなかった」と光の勝利を語るのです。
Ⅲ.光の証人としての洗礼者ヨハネ
さて、6節からは洗礼者ヨハネへの言及が始まります。「この人は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるためである。」と伝えています。
この後、3章22節からの箇所に、「イエスと洗礼者ヨハネ」と小見出しのついた出来事に出くわします。その時、ヨハネの弟子たちが洗礼を巡って論争したというのです。「イエス」という名の教師が登場してから、ヨハネ先生の勢いに影が差し始めた。その結果、それが洗礼者ヨハネ自身に対する弟子たちの不満へと発展していったようなのです。これに対し洗礼者ヨハネは、「自分はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者」(28節)だと答えました。聖書が教える「謙遜さ/謙虚さ」とは、背伸びして大きく見せるのでもなく、自己卑下するのでもない。等身大の自分として生きることを意味しますが、28節は正にそうした言葉です。
確かに当時の人々の目から見たら、洗礼者ヨハネも主イエスに劣らず輝いていた人だったに違いない。しかしそうだとしても洗礼者ヨハネ自身は光ではなく、光についての証人でした。ただ信仰者にとって幸いなのは、使徒パウロが「光の子として歩きなさい」と語っているように、私たちにも、洗礼者ヨハネのように輝いた人生を送る可能性があるということなのです。
では、どうしたらいいのか。それは光そのものであられる、主イエス・キリストと向き合うようにして生活することです。礼拝や御言葉と祈りの生活を通して光なる主に向かい合う。すると月が太陽の光を体一杯に受け反射させながら、夜空に光るように、主イエスの愛の光、聖さという光、正義という光、つまりイエスさまのご人格に現された光が、私たちを通して反射させられていく。洗礼者ヨハネもそのようにして輝いたに違いないのです。
Ⅳ.一方的な恵みによって、神の子とされた使徒ヨハネ
さて10節には、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」と書かれています。ところでマタイやルカ福音書はイエス・キリストが旅先で生まれたことを伝えています。当時、世界を支配していたローマ皇帝が課税台帳を作るために、それぞれの生まれ故郷に行くようにという命令を出したからです。その結果、ユダヤ社会がごった返していました。どこの宿屋も満員だったからです。その結果、誕生したイエスさまは飼い葉桶に寝かされました。ただそれ以上に、主が飼い葉桶に寝かせられたのは他者に場所も譲ることのできなかった人間の心の狭さがもたらした悲劇だったのだと思います。それが10節の「自分の家に来たのに、家の者から他人のような扱いを受けた」ということでしょう。この後、使徒ヨハネは3章16節で、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」と綴ります。ヨハネは、神がご自分の独り子をプレゼントしてくださったのだと語るのです。
今日は母の日でもありますが、皆さんが母親にプレゼントを贈るとしたら、そこでどのようなことを期待するでしょうか。母親が笑顔で喜んで、そのプレゼントを受け取ってくれることを願うでしょう。神さまが「独り子」というプレゼントを贈られた時もそうだったと思います。二千年前のクリス マスの晩、心を込めて贈ってくださったプレゼントをほとんどの人間が拒否してしまった。ですからイエスさまは飼い葉桶にお生まれになった。11節の「言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった」とはそのことを意味しているのです。でも、本当に幸いなことに、それでお終いではありませんでした。12節を見ますと、神からのプレゼントを受け取る人たちがいたのです。神は彼らに神の子となる権能を与えるのです。しかも、血筋や家柄でも肉体に備わった生理的欲求や意欲など、私たちに備わっている何かによってではなく、一方的な恵みによって神の子にしていただく。これは決して忘れてはならない恵みでしょう。
福音書を記したヨハネは、若い頃、主イエスに招かれて弟子となりました。主イエスの教え、御業を目の当たりにしました。十字架の直前、兄のヤコブと一緒に、仲間に内緒でイエスさまに出世を願い出もしました。後で、それを知った仲間の弟子たちは激怒しました。同じようなことを考えていたからです。しかし、主イエスにあれだけ良くしていただいたにもかかわらず、十字架を前に主イエスを見捨てて逃亡したのです。
でもその後、十字架の愛を知り、復活の希望をいただき、ペンテコステの日に聖霊の命をいただいた直後から、自分たちの中に明らかな変化が現れて来ました。仲間を出し抜こうとして叱られた兄のヤコブは教会のため、主イエスのために最初の殉教者となりました。同僚のペトロや後に教会に加わったパウロも殉教したのです。そして自らも信仰の故に投獄を経験し鞭打ちの刑を受けた者のうちの最初の一人となりました。そしてこの後、パトモス島へと島流しになろうとしている。ヨハネ自身はそのような歩みをして来た人でした。
主イエスの愛に触れ、包まれた時、本当に心の底から喜びと力が湧いてくる。堅く冷たい石の心が砕かれ、ぬくもりのある愛の心へと変えられていった。そして、本当に不思議なのですが、この神さまの愛に、自分も応えるようにして生きて行きたい、と願う者へと変わってきた。その恵みが、あなたにもあるように!そうしたキリストにある、新しい創造の御業に、あなたも与って欲しい、という祈りと願いをもって、使徒ヨハネはこの福音書を記したのです。
お祈りします。