松本雅弘牧師
詩編39編1-14節
ペトロの手紙一1章22-25節
2022年5月15日
Ⅰ.召天者記念礼拝の意義
毎年、高座教会ではイースターからペンテコステの間、すなわちキリストの復活を覚える、この季節に《召天者記念礼拝》をささげ、召された方々のことを偲び、生と死ということを聖書からご一緒に考えながら、ご遺族をはじめ、私ども一人一人が神さまからまことの希望をいただき直す時を過ごしています。
天に召された兄弟姉妹も、そして地上に生きる私たちも、復活の主キリストにあって1つとされています。召された方々は「過去の人」ではなく、今も共にキリストにあって礼拝する人、これからキリストにあって再会する人であります。そのようなことを心に留めながら、この礼拝の時を過させていただきたいと願います。
Ⅱ.詩編39編に込めた詩人の思い
今日の召天者記念礼拝のために選びました39編は《人生のはかなさ》を歌っています。この時、この詩人の周りには、彼の言葉を使うならば、2節にありますように、「悪しき者」、以前の共同訳聖書では「神に逆らう者」と訳されていましたが、そうした者がいました。ですから詩人は、「舌で罪を犯さないように、私の道を守ろう。悪しき者が私の前にいるうちは、口にくつわをはめておこう」、そう自分自身に言い聞かせた。つまり、「悪しき者を前にして、敬虔に生きよう、自己主張を控えよう」と決心したのです。ところが、その結果、思いもかけない精神的な苦しみを経験することになります。
「私は黙り込み、口を閉ざし善いことについても沈黙した。だが、私の苦痛は募り、私の内で心が熱くたぎった。私の呻きで火は燃え上が(った)」。
その結果、彼はどうしたか、と言いますと、思いの丈を神さまに向かって訴え始めるのです。「主よ、知らせてください、私の終わりを。私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。私は知りたい、いかに私がはかないかを。そうです あなたが私に与えたのは手の幅ほどの日々。私の寿命など、あなたの前では無に等しい。確かに立っているようでも人間は皆空しい。」
ここで詩人は、自分の人生の終わりを思い、そのはかなさを訴えています。どうしてそんな気持ちになったのかといえば、彼が言うところの、「悪しき者/神に逆らう者」たちが元気に日常生活を営んでいる。それだけではありません。様々な点で成功を収めているかのように見える。それに対し詩人が直面していた現実は真逆なのです。一言で言うならば、「主よ、私の人生は負けなのですか」と問うているかのようです。
詩人は、そうした「悪しき者/神に逆らう者」たちの生き様と自分自身の歩みを比較した上で、最後に「私が去って、いなくなる前に」と語ったのです。
私は、毎週、教会員の方たちに誕生日のハガキを書いています。主事室の方の奉仕で、一月分の誕生者の名前のリストと共に、その人がことし幾つになったのかが書かれています。それを見ながら、一枚一枚のカードを書くのです…。たぶん、二十歳を迎えた方は、人生はまだまだこれから、と思っておられるでしょう。倍にしても四十歳ですから、ある程度の見通しを付けることが出来る。三十歳になった頃も、倍にしても、六十歳ですから、これまた想像がつく年齢かもしれません。
ところが、五十歳になり六十歳を超えて来ると先行きが見通せなくなってくる。今までとは全く異なるステージに足を踏み入れた感覚となる。「私が去って、いなくなる前に」という言葉は、まさに去って行くこと、消えて居なくなっていくことが、現実味を増して来た、ということでしょう。そして、繰り返しになりますが、私たちの人生が単に短いだけではなく、人との比較、特に「悪しき者/神に逆らう者」との比較の中で、虚しさを嫌というほど感じざるを得ない。なぜなら、彼らの方が成功しているかのように見えるから。それが、この時、詩人が直面していた現実だったようなのです。
このような中、極度の空しさを覚え、新共同訳を見ますと、「ああ」というため息の言葉を三回使っています。7節に二回、そして12節に一回。そうしながら、私たち人間の営みが、いかにはかなく、かつ空しいものであるかを強くかみ締めているのだと思います。しかも、詩人は、「人生の空しさ」というものは、信仰のある無しにかかわらず全ての人に当てはまるということを主張しているようにも聞こえて来ます。そうした上でもう一度、心を高く上げるようにして、8節の終わりを見ますと、「わが主よ、私が待ち望むのはあなただけです。」と主への信頼を告白していったのです。
さて、私は、この39編の真ん中の、こうした8節の言葉で終わるならば、まさにハッピー・エンドだったと思います。ところが、この詩には続きがあります。主を求め、神さまの御言葉を求めて行った時に、それは、詩人にとっての唯一の希望である神さまと、ただ交わりを持つというだけでは済まされなかった。神さまの御前に立つことと同時に、自らの罪を示されていったのです。
12節「あなたは過ちを責めて人を懲らしめ、人の欲望を、虫が食うように溶かしてしまいます。まことに、人間は皆空しい。」
人生は、単に短いという現実よりもさらに冷酷な現実に直面していた。そうです。自らの罪の問題です。人間存在そのものが人間の罪の故に、実に空しいものとされている、という現実でした。こうしたところを通って、この詩篇の結論部分に入って行きます。13節「主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないでください。私はあなたに身を寄せる者 すべての先 祖と同じ宿り人」。
一言で言って、これは本当に慎ましい訴えです。この13節をヘブライ語聖書から直訳しますと「私は、あなたと共にいる旅人で、私の全ての先祖たちのように、寄留の者なのです」ということです。私は、自分自身の天国への引越しを思う時に、この祈りの言葉と私の思いが重なって心に響いてくるように思うのです。
Ⅲ.旅人としての私たち
聖書は、人は地上では旅人であり寄留者であると教えます。この人生も主から与えられたものであり、やがて来るべき御国こそ、信仰者の故郷です。ただ13節の言葉は、そうした積極的な意味での「死のかなたへの希望」が語られているのではなく、神さまの憐れみをかきたてるかのように、いじらしい仕方の訴えで締めくくられています。
14節「私から目を離してください。そうすれば、私は安らぎます。私が去って、いなくなる前に。」別の翻訳聖書で読みましたら、「私を見つめないでください。私が去って、いなくなる前に、私がほがらかになれるように」とあります。何と小さく、いじらしい訴え、慎ましい訴え!
聖書は、この詩人に対する主のお取り扱いは語っていませんが、この訴え、この哀願により、主の心は大いにゆすぶられたにちがいありません。このいじらしいほどの小さな祈りに、主は力強く、優しく応えてくださるお方だからです。
Ⅳ.心を騒がせてはならない
私が、葬儀のたびごとに必ず朗読するのが次の主イエスの御言葉です。
「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:1-3)
私たちが、死を迎えますとき、それは行く先が分からずに旅立つのではないのです。ここで主イエスははっきりと、「心を騒がせてはならない。心を騒がせる必要はない。むしろ、私を信じなさい」とおっしゃるのです。イエスさまを信じるとはそのお方の語る言葉を信じることです。
コロナ禍以前、必ず、礼拝の最初に頌栄を歌いました。その一つが賛美歌29番、「天のみ民も」という賛美歌です。こういう歌詞でした。
「天のみ民も、地にあるものも、父・子・聖霊なる神をたたえよ、とこしえまでも。アーメン。」
私たちが、地上にあって神を賛美している時に、天においても愛する家族が神に礼拝を捧げていることを覚えながらの賛美歌です。
主イエスさまは約束しておられる。いまこの時も、私たちの愛する家族は、神さまの御許で安らかに時を過ごしておられます。そして私たちも、その神さまの定めた良き日に、御許に召され、眠りから覚めた時に、先に天に引越して行った、愛する家族、主にある兄弟姉妹と再会することができる。この復活の希望を持って生きることが許されています。
今もなお、愛する方々を御許に送られたが故に、深い悲しみの中にあります方々もおられることでしょう。そうした方々の上に、主の慰めと希望が豊かにありますようにと祈りをあわせたいと思います。
お祈りいたします。