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主日共同の礼拝説教

キリストの名によって

和田一郎副牧師
詩編25編1-7節
ヨハネによる福音書16章16-24節
2022年5月22日

Ⅰ.最後の晩餐で

教会では天に召される方を見送る機会があります。その中で印象的なのは穏やかに召されて行く方の姿です。信仰のゆえに心が穏やかにされているのだと思いますが、それに加えて愛する人に見送られているという平安があると思いました。頼れる人が、自分との思い出や大切にしたものを覚えていてくれるというのは素晴らしいことですし、そう思えるからこそ、穏やかに召されていけるのではないかと思いました。
イエス様もそうでした。十字架に向かって死を意識していた時、残された愛する弟子たちに、全身全霊をかけて残したいものがありました。そのために、イエス様は死の直前になって、弟子たちだけを集めて「最後の晩餐」の時をもちました。その様子がヨハネ福音書13章から17章にかけて記されています。その最初のところに次の言葉がありました。
「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」(ヨハネ福音書13:1)。この「最後の晩餐」での話しの中心は何かというと、イエス様ご自身は去って行くことになるが、それは弟子たちにとって喜びとなるということでした。

Ⅱ.去ることが喜びとなる、二つの理由

弟子たちにとって喜びとなる理由は二つあります。一つは自分が去って行けば、聖霊をお遣わしになるからです。聖霊が来ると、信仰者は聖霊に満たされ、その人の内に留まり、神の御心を分かる者へと導いてくださる。聖霊が降るという恵みです。もう一つ、イエス様が去っていくことは、父なる神様に直接祈る関係になれるというのです。それまでの旧約時代に生きていた信仰者たちは、人間が神様と直接に接すると、死んでしまうと信じられていました。確かにそれまではモーセのような預言者という特別な仲介者を通して神の御言葉を聞くしかありませんでした。しかし、イエス様が去って行くことによって、神様との関係は、直接祈ることができる関係になると話されたのです。
この二つのこと、聖霊との関係と、父なる神との関係が、自分がこの世を去っていくことによって、弟子たちにとって素晴らしい喜びとなると、「最後の晩餐」で伝えたかったのです。今日の聖書箇所は、特に父なる神との関係について弟子たちに伝えています。
16章16節「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」とあります。しかし、弟子たちはイエス様の言っている意味が分からなかったのです。実際、死んだ人が復活すること自体が、弟子たちにとって信じられないことでしたから理解するのは難しかったでしょう。18節「何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」と、彼らは不安になっていったのです。神様は絶対的な存在ですが、人は相対的です。神様は揺るぎない存在ですが、人は神様や隣人との関係の中で自分を認識するという相対的に生きる存在ですから、信頼しているイエス様がいなくなると聞いて不安になってきました。イエス様が「しばらくすると、私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」と言われた意味は、イエス様は十字架に向かわれて死んで葬られれば「見なくなる」。3日目に復活すれば「見えるようになる」、これから起こることを、イエス様は前もって弟子たちに伝えたのです。
20節「よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる」。イエス様が死んでしまったら、弟子たちは泣き悲しみます。しかし世は喜ぶ。イエスを殺そうと願った者たちは、ユダヤのファリサイ派や律法学者、祭司だけではない、民衆も「イエスを殺せ」と言ったのです。そのことで弟子たちは苦しむが、その苦しみは喜びに変わる、なぜなら三日目によみがえり、再び弟子たちの前に現れてくださるからです。その衝撃と喜びは弟子たちの人生を変えました。いや世界の在りようを変える出来事でした。歴史が変わったのです。その大きな喜びは、その後奪い去られることはない。なぜならばイエス様は復活した後に天に戻られますが、代わりに聖霊が送られてきて、聖霊によって永遠に神と共にいられる新しい時代が来るからです。
23節「その日には、あなたがたが私に尋ねることは、何もない」と言われました。その日とは、イエス様が復活して天に戻られた後のことでしょう。その日以降、イエス様の姿を見ることがなくても、聖霊の力によって、天の神様に直接祈れるようになるからです。
「最後の晩餐」の席で弟子たちに語られた大事なことが二つあると言いました。「聖霊」と「父なる神」との新しい関係をイエス様の十字架の死と復活がもたらしたのです。その喜びというのは、父なる神、子なるキリスト、聖霊という三位一体の神の交わりに、私たち人間が加えられるということなのです。
「私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせるのは、あなたがたも、私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(1ヨハネ手紙 1:3)
これは「最後の晩餐」の席にいたヨハネが、後に書いた手紙の言葉です。「御父と御子イエス・キリストとの交わり」とあって、聖霊が抜けているのは御父と御子の関係を強調したからのようですが、勿論これに聖霊も加わって、三位一体の神の交わりの中に加えられて生きる喜びを得るです。12弟子の一人であるヨハネは、イエス様の話されたとおりのことを体験したのです。聖霊に満たされて、父なる神に直接祈ることができる恵みを手紙に書いたのです。

Ⅲ.イエス・キリストの名によって

しかし、そのためには大事な条件がありました。それが23節後半にある「よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる」ということです。つまり「わたしの名によって願う」「イエス・キリストの名前によって祈れば」三位一体の交わりに加えられている者の願いは、必ず叶えられるというものです。イエス様は「私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか」(ヨハネ福音書14:10)とおっしゃいました。父が私の内にいる。父と御子イエスは一体、そして聖霊の力によって私たちは祈れる。それで私たちは今祈っているのです。「イエス・キリストの御名によって祈ります」と。それは、三位一体の神の交わりに加えられて祈り願っていることを意味するのです。
イエス・キリストの名前。イエスという名前は、ヨセフとマリアが考えたものではありませんでした。天使から告げられたものです。「その子をイエスと名付けなさい」(マタイ福音書1:21)と。イエスとは、ヘブル語ではヨシュア「ヤハウェは救う」という意味です。「イエス」という名前は、当時のユダヤにおいてはとても一般的な名前でした。「ナザレのイエス」と言わなければ他のイエスと区別がつきませんでした。きわめて平凡な名前を天使、つまり神様があえてつけたのには意味があります。イエスという名は、神の子としての使命・性質である「謙遜」を表わしています。イエス様は、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようと思わず、僕(しもべ)の形をとり、人となられました。イエスとは、その平凡な名前ゆえに神の謙遜を意味しています。へりくだって、人となられて十字架に至るまで従順であった、その人の人格を表しています。
イエス様の名前は、父なる神様から与えられていた、特別な使命も表していました。イエスというヘブル語でヨシュアという名は、旧約聖書のヨシュア記にでてくるイスラエルの勇士の名前と同じです。ヨシュアはイスラエルの民を解放して、約束の地に導きました。同じようにイエス様は罪と死に囚われてしまった人間を、奴隷状態から解放してくださった救い主です。
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ福音書1:21)その名の通り、救い主となられました。

Ⅳ.名は人を表す

聖書において、名前はその人の実体や性質をもっていると見なされましたが、名は人を表すという言葉を耳にすることがありますね。わたしの母は、頼るという字に子と書いて頼子(よりこ)という名前でした。神様に依り頼む子になって欲しいという意味です。癌で闘病の末に天に召されたのですが、入院中に、自分が死んだ時の葬儀の準備をしていました。受付や食事の担当などを「この方に頼もう」「あの人にお願いしよう」と書き残していたのです。息子としては複雑な思いで見ていました。弟子たちが、イエス様が「わたしを見なくなる」と言って不安になったのと同じような気持ちでした。その時の母の言葉を覚えています。「人に頼ることも大事なコミュニケーションだからね」と。その何気ない言葉は、わたしの心にずっと残りました。私がまだ20代で自立すること、仕事で認められることに夢中だった頃に聞いた言葉でした。人に頼らないで切り開いていくことが立派でカッコいいと思っていたころでした。母は名前のごとく神様にも、人にも依り頼む人であったと思います。人に頼れる賜物がありました。隣人にも神様にも、依り頼み、頼られる人だったな、そういう母の生き様を見て育ったと実感したので、その言葉が心に残ったのだと思います。私は息子に母の「頼」という字をつけました。今の時代、人に頼むということが難しい時代です。人に頼みごとをしない、できない、苦手な人が多い。頼み、頼まれることが難しい社会になっているようです。誰にも相談しないで孤立している人が多い時代だからこそ、神様にも、隣人にも頼って生きるという信仰をもって欲しいと思うのです。「人が一人でいるのはよくない」と言われた神様の御心に従って生きて頂きたいのです。
今日の聖書箇所24節後半。イエス様は「願いなさい」と十字架に架かる前日に語られました。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」。イエス様は、あらゆる人々が、どこにいようとも神に直接願い求めることができるために、救いのために十字架の死を受けてくださいました。イエス・キリストの名前によって願うことが、父なる神に願うことであり、聖霊の力をかりて願うことができるようになるためです。
「願いなさい」主イエスに、終わりの時まで、従っていきましょう。お祈りをします。