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主日共同の礼拝説教

天を見上げて

和田一郎副牧師
創世記15章1-6節
ヨハネ福音書17章1-5節
2022年5月29日

Ⅰ. 最後の晩餐で

今日の聖書箇所は、先週に続いて「最後の晩餐」の出来事です。イエス様は弟子たちとの最後の語らいの中で、いったい何を祈られたのか。この箇所を皆さんと見ていきたいと思います。

Ⅱ. 神の栄光

1節に「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」とあります。「時が来た」というのは、イエス様がこの世から、天の父のもとへ移る時が来たということです。翌日には十字架につけられて死ぬのです。そして復活して天に昇る、その時が来たということです。その時に「栄光を与えてください」とイエス様は祈りました。12章23節でも「人の子が栄光を受ける時が来た」と言っておられました。イエス様が、死んで復活されることは、人の子としてこの世を生きてこられたイエス様が、神の子としての栄光を受けるということです。
「あなたの子が、あなたの栄光を現すために、子に栄光を現してください」と祈ったのは、イエス様ご自身が栄光を受けることによって、私たちキリストを信じる者たちの救いが実現するからです。ですからイエス様が、自分のために祈っているように聞こえますが、私たちの救いを実現するための、ご自分の使命を果たすための祈りなのです。
栄光を現わすというのはいったい、どのような意味なのでしょうか。栄光について、4節で「私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」とあります。イエス様が地上で栄光を現わした出来事を、いくつか振り返ってみます。まずイエス様が誕生した時、羊飼いたちが夜空に見た「光」、これは「主の栄光が周りを照らした」(ルカ2:9)とあります。次いで、カナの婚礼の出来事で、樽に入った水を、ぶどう酒に変えた時「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(ヨハネ福音書2:11)とありました。そして、もっとも強く栄光を現わしたのが、イエス様の十字架と復活です。復活の後エマオへの途上で弟子たちに「ああ、愚かで心が鈍く・・・信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」(ルカ 24:25‐26)と言いました。「これらの苦しみを受けて、栄光に入る」つまり十字架の苦しみを受けて「栄光に入る」と示しました。そして、イエス様が神としての栄光を完全なものにするのは再臨の時です。イエス様は「・・・人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る・・・」(マルコ8:38)と、再臨の時は、キリストが父の栄光に輝く時だと説明していました。
最初の羊飼いたちの反応を見ると、夜空の光を見て「恐れた」とあるのです。つまり「恐ろしくなるほど驚いた」のです。ある人が栄光が現れることを「神様は素晴らしい!と感動することだと説明していました。それらは、単なる奇跡ではなくて「神の素晴らしさ」が現わされているものを「神の栄光」としているのです。まさしく羊飼いは光を見て「神様は素晴らしい!」と感動して、家畜小屋のイエス様を見に行ったのです。水をブドウ酒に変えた業も「神の業とは素晴らしい」ですし、十字架の死と復活も「神様は素晴らしい」と感動し、驚き、恐れおののくほどの誉れ高い出来事が成されたのです。
神の栄光は、人にも現わされますし、自然の中にも神の栄光が現わされます。人が現わす愛や、芸術、勇気ある行動などの中に神の栄光を見ることができます(2コリント4:6)。自然の美しさの中にも神の栄光を見ることができます(詩編19:2)。それは、例えるなら、神の栄光を映し出す惑星のような輝きです。自分自身で輝く太陽のような恒星の輝きではなく、月のように太陽の光を反射させて輝く、惑星のような輝きが、人間や自然に現わされているのです。人間の素晴らしさ、自然の美しさ、それに驚き感動することは、言うなれば「神様は素晴らしい」と感動することであり、それが神の栄光なのです。イエス様は「私は、人からの栄光は受けない」(ヨハネ福音書5:41)と言われました。人からではない、父なる神の栄光を「子に栄光を与えてください」とイエス様は1節で祈りました。
2節「あなたは、すべての人を支配する権能を子にお与えになったからです。こうして、子が、あなたから賜ったすべての者に、永遠の命を与えることができるのです」と話されましたが、具体的にはすべての者に「永遠の命を与える」権能を与えたのです。これは聖書の中の聖書と言われるヨハネ福音書3章16節の「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉を完成するための権能です。

Ⅲ. キリストを知ること

3節には「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とあって、永遠の命とは、キリストを知ることだと言うのです。
永遠の命というのは、死んだ後の話ではありません。今を生きる私たちが、キリストの栄光を反射した惑星のように輝きを放って生きることが永遠の命です。それは神様に与えられた、本来の自分らしい自分を生きることですし、キリストに似た者へと変えられていく生き方です。それが永遠の命でありキリストを知ることなのです。キリストを知るというのは、知識としてキリストを知るとか、聖書の勉強をするということだけではありません。
先週、エクササイズ修養会という黙想会がありました。その時の学びで次のようなものがありました。
パウロが、コリント教会の人々に「最も大切なこと」を手紙に託して伝えたのです(1コリント15:3-11)。それは「振り返ること」です。つまり「神様がこの自分に何をして下さったか」と振り返ることです。パウロはイエス様の十字架の死と復活、そして自分に働きを与えてくださったことを、立ち止まって、振り返ってみた時、「神の恵みによって、今の私があるのです」と言ったのです。これから先にやることではないのです。この自分に神様が成してくださった恵みを知ること、それが「最も大切なこと」なのだとパウロは言ったのですが、それこそが「キリストを知る」ことだと思いました。実は、その修養会に行くために東名高速道路を走っていてスピード違反で捕まってしまいました。自分としては周りとあまり変わらないスピードのつもりでした。しかし、それはあくまでも自分の感覚です。しかし、神様の視点からすれば「ちょっと待ちなさい」ペースを落として、立ち止まって振り返りなさいと言われたように思いました。そして修養会では、この自分に神様が成してくださった栄光を振り返ったのです。私は、パウロの言葉を借りれば「月足らずで生まれた」未熟なクリスチャンです。そのようなわたしに、イエス様はまさしく栄光を現わしてくださいました。キリストを知るとは、そういうことではないでしょうか。キリストが自分に成してくださった恵み。それを大切にすることが「キリストを知る」ということだと思うのです。

Ⅳ. 天を見上げる

ヨハネ福音書に戻りますが、これらの祈りを、イエス様は1節にあるように「天を見上げて言われた」とあります。イエス様は、天におられる父を見上げて、話しをするように祈っておられたのです。わたしたちが祈る時は下を向くことが多いのですが、イエス様の祈りは父との人格的関係を表していると思いました。
人と人とが、相手への信頼をもって話し合う時、相手に目を向けます。互いの存在、互いの人格を認め合いう事です。父なる神とイエス様の関係は、この天を見上げて祈る姿に現れていると思いました。

教会のAさんに、お孫さんとの辛かった思い出を聞きました。Aさんには息子さんと、その孫が二人いるそうです。息子さんの奥さんは事情があって居なくなり、別の女性が家にやって来て、姉妹と同じ敷地に4人で生活を始めたそうです。祖母にあたるAさんは孫を幼稚園に送ったりして子育てを手伝っていました。孫たちもお祖母ちゃんに懐いていたのですが、新しく来た嫁が自分達で育てるといって自由に会うことができなくなってしまった。しかし、新しい嫁には自分が生んだ子ではない二人の幼児を育てる気持ちがなかったのです。幼子の体にはアザができて、食事もしっかり与えられなくて痩せていたそうです。Aさんは孫たちの状況を見かねて警察や児童相談所とも相談し続けたのです。祖母には親権がありませんから自分ではどうにもできない。児童相談所とも相談して、遠方にある児童養護施設に預けることになったのです。ようやく空腹や虐待から逃れられた二人の兄弟ですが、Aさんとは会えない施設の環境は淋しい思いがあったのだと思います。Aさんは孫たちのことが、どうしても気がかりで、遠くにあるその施設に行ったのだそうです。しかし、児童相談所からは、決して会ってはいけない。遠くから様子を見るだけだと厳しく言われましたが、施設の祭りの日に出かけていって孫たち二人の様子を遠目に見ているだけでした。しかし、孫たちはお祖母ちゃんたちが来ているのを察したので、施設の保母さんと一緒に駅まで追いかけて来た。お祖母ちゃんに会いたい。しかし、Aさんは会ってしまったら、児童相談所から二度と会ってはいけないと言われるかも知れない。保母さんが「一目会ってください」と言われても、その一目会うことができなかった。
トイレの奥に閉じこもって「いいんです。いいんです」と言うしかなかったそうです。本当は目を合わせて会いたかった。目を合わせることと、遠くから眺めることとは大違いです。心を互いに向けること、相手がいて、わたしがいる。祈るということは、神がいて、わたしがいる。それぞれの存在を認めたところで交わされる会話が、神に祈るということです。イエス様は、父と目を合わすかのように天を見上げて祈ったのです。5節「父よ、世が造られる前に、私が御もとで持っていた栄光で、今、御前に私を輝かせてください」。天地創造という素晴らしい栄光が現わされた時の栄光で、今わたしを輝かせてください、とイエス様は祈りました。そして、わたしたちも、その栄光の輝きを、神様を見上げて、神様の御前で、わたしたちも輝かせていただきたいと思うのです。
人からではなく、周りからの栄光ではなく、天を見上げて神の栄光を放つ者として歩んでいきましょう。
お祈りをいたします。