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主日共同の礼拝説教

人となった神の言

松本雅弘牧師
ホセア書11章4-9節
ヨハネによる福音書1章14-18節
2022年6月12日

Ⅰ.「神のようになろう」

先週、私たちはペンテコステ礼拝を捧げました。説教でも触れましたが、ペンテコステの出来事を思い巡らす時に、私は創世記に出て来るバベルの塔の出来事、言葉が混乱した、あの出来事を思い出します。
あの時、人間は、「さあ、我々は町と塔を築こう。塔の頂は天に届くようにして、名を上げよう」と思い上がって計画を立てました。「名を上げよう」とは、言い換えれば、「神のようになろう」という思いです。その思いの実現のために、天に届くほど高い塔の建設にとりかかった。ところが、御覧になった神さまはそれをよしとされませんでした。神さまは人間の言葉を混乱させ、結果として塔の建設は中断してしまいます。
ヘブライ語の「バベル」とは「混乱」を意味する「バーラル」という言葉から来ていますが、現代でも、「神のようになろう」という人間の高慢が分断や対立をもたらし、混乱を巻き起こしています。
実は、「神のようになろう」という思いは、遡ると最初の人アダムとエバが善悪の木の実を取って食べた時、彼らの心を支配していた動機であることを聖書は伝えています。神さまから離れた人間の心は、「神のようになりたい」という思いが常に勝っていたのだと聖書は伝えています。

Ⅱ.「言は肉となって、私たちの間に宿った」

そうした中、ヨハネ福音書1章の14節には「言は肉となって、私たちの間に宿った」と語られています。ヨハネ福音書が伝えるクリスマスメッセージです。
高校生の時に手にしたトラクトに、「言は肉となって、私たちの間に宿った」という出来事は、例えてみるならば、人間が蟻になって蟻の世界に入って行くような出来事、いやそれ以上の出来事だと書かれていたことが、今でも心に残っています。
人間も蟻も神さまから見たら同じ被造物です。人間が蟻の姿をとって、いや、蟻になって、蟻のコミュニケーションの仕方で蟻と関わりを持たなければ、決してメッセージを伝達することができないように、天地万物の造り主である神が私たちを愛されたがゆえに、ご自分の愛する独り子、神ご自身であられるお方が人間の姿をとってくださった。それも一時的ではありません。あのクリスマス以降、永遠に人間の姿をとって私たちの只中に来てくださった。考えてみるならば、「言は肉となって、私たちの間に宿った」、神が人となるということは、言葉で言ってしまえば簡単かもしれませんが、それはとてつもなく大変なこと、大事件であったことだと思うのです。
ところで、使徒ヨハネによって、この福音書が書かれた当時、すでに主イエス・キリストは昇天し、この地上におられません。ペンテコステ、聖霊降臨の恵みにあずかった初代、古代の教会が、宣教の戦いを始めた時代です。そうした宣教の戦いの中で、「言は肉となって、私たちの間に宿った」、神が人となるという「受肉」の教理は、今でもそうですが、いや今以上に受け入れがたい教えだったようです。それを知る手掛かりのの一つが、使徒ヨハネの手紙に出て来ます。ヨハネは、「イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです」と記していますが、裏を返せば、手紙の受け取り手であった当時の教会の中にさえも、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しない人々、疑う人たちがいたということでしょう。
神は永遠なるお方。それゆえ決して絶えることがないお方。だからこそ当時は、そのようなお方は、決して滅ぶべき肉体をとらないと考えられていた。これは私たちの現代の常識にも通じることです。

Ⅲ.受肉されたお方は愛の神

確かに頭で考え導き出す時に、「言は肉となって、私たちの間に宿った」などとはあり得ない。永遠のお方が有限なる時間の中に入って来られたなどとは理屈に合わない、全能のお方が肉体を取るということは、様々な面で制限や制約を強いられるわけですから、そんなことはあり得ないと考えるのが普通でしょう。ところが、真の神は全知全能であられると共に、慈しみ深い愛のお方でもあった。ですから全能の御力を用いて、自らを低くして、人間の姿をとられたのだとヨハネは強調するのです。
ところで、昨日、結婚式を司式しました。そして先週は洗礼式がありました。私は結婚式、洗礼式を司式しながら、以前、ある牧師が、洗礼を受ける際の信仰の告白は結婚の誓約に似ている、と言った言葉を思い出していました。つまり「健やかな時も病む時も」とあるように、結婚の誓いというのは、調子のよい時だけではなく、どんな時にも相手に対する誠実さを保つ誓いでもあるからだ、ということでした。
旧約聖書によれば出エジプトの出来事の後、イスラエルの民はシナイ山において神と契約を結びます。正に結婚の誓約をするのです。神はイスラエルの民を「花嫁」と呼びます。そしてその結婚が守られ祝福されるようにと神は十戒を中心とする「律法」をお与えになりました。
ですから結婚という契約関係に入ったのは律法を守った結果ではありません。あくまでも律法は「神の民たるもの、主の花嫁はいかにあるべきか」を示すもの。特に私たちカンバーランド長老教会では、この契約関係を「恵み」と呼びます。
この恵みの契約関係と対照的なのが一般的な契約関係です。就職を例に考えてみると分かり易いと思います。就職で試用期間という時期を設けます。そしてよく働けることが分かったら本採用となる。イスラエルの民の場合は最初から本採用なのです。
実は、シナイ山において恵みの契約を結んだイスラエルの民は、「神の民たる者、主なる神の花嫁たる者はいかにあるべきか」を示す律法を、早々と破るという大事件が起こります。モーセの不在中に痺れを切らした民がアロンに、「自分たちを導く神々を作ってください」と詰め寄ったのです。その結果、アロンは民から金を集め、雄牛の像を作り祭壇まで築き、お祭り騒ぎを始めます。主なる神の花嫁であるイスラエルの民が、主なる神を捨てて、別の男性、金の子牛という偶像に走ってしまった。姦淫の罪を犯したのです。会社でしたらクビになっても当然のような大事件。しかしモーセの必死の執り成しによって彼らの命は助かり、結婚関係も解消されずに済んだのです。主は結ばれた恵みの契約を破棄されないのです。
実は、このことをよく表しているのが、今日の朗読箇所のホセア書の御言葉です。神の民が神に逆らい自滅の道を辿ろうとして行くのに対して、
「エフライムよ/どうしてあなたを引き渡すことができようか。/イスラエルよ/どうしてあなたを明け渡すことができようか。/どうしてアドマのようにあなたを引き渡し/ツェボイムのように扱うことができようか。/私の心は激しく揺さぶられ/憐れみで胸が熱くなる。」(8節)と言われるのです。まさに調子のよい時だけではなく、どんな時にも相手に対する誓いを神さまの側で守ってくださっている。これが神さまの愛、これを聖書は恵みの関係、恵みの契約関係に入れられているからだ、と教えるのです。
以前、ある神父がツィッターでつぶやいていました。「『絶対に救ってくれる神さま』のもとで、神の子であると信じる以外に、本当の安心なんてあるはずないでしょ?『いつかキレる親』だったら、本当の安心にならないじゃないですか。」まさに私たちの神は「いつかキレる親」でも「いつかキレる夫/伴侶」ではない。絶対に救ってくれる神さま、恵みの契約を決して破棄されないお方なのです。

Ⅳ.愛ゆえに払ってくださった犠牲

確かに旧約聖書を読みます時、花嫁イスラエルは繰り返し律法を破ります。あるいは私たち自身の今までの信仰生活を振り返ってみてもそうでしょう。神に対してすぐに罪を犯してしまう。しかし、にもかかわらず主なる神はペトロに対して、「七の七十倍まで赦しなさい」と自らが言われるお方であるがゆえに、彼らを、私たちを赦されるのです。最後の最後まで、自らが結んだ恵みの契約に誠実を尽くしてくださる。何と慈しみ深いお方なのでしょう!
ただ、そのことを可能とするために、決して忘れてはならないことがあります。主なる神がどれだけ心を痛めたか。犠牲を払ったか。贖いの血が流されたか。執り成しの祈りや労苦が捧げられたか。そうした一つひとつの労苦は新約に至り、「言は肉となって、私たちの間に宿った」。そうです。最終的には十字架の贖いにつながっていくのです。
人となった神の言。そのことによって私たちに救いをもたらしてくださったお方に心から感謝し、また御名をほめたたえたいと思うのです。
お祈りします。