和田一郎副牧師
詩編32編1-7節
使徒言行録16章16-34節
2022年6月22日
Ⅰ. 使徒言行録について
今日の聖書箇所は使徒言行録です。使徒言行録を書いたルカは新約聖書の中で二つの書を書きました。第一巻はルカによる福音書、その続きとなる第二巻が使徒言行録です。ルカ福音書の主人公はイエス・キリスト、第二巻 使徒言行録の主人公は「聖霊」です。ペトロやパウロたちに聖霊が働きかけて、福音の広がりがエルサレムからローマへと広がっていきました。聖霊はまずエルサレムに教会を建てました。迫害を受けた教会が、聖霊によってエルサレムから世界へと働きを広げ、聖霊を受けたアンティオキア教会は、使徒パウロの働きを教会の中から外へと送り出し、宣教の働きがアジアのみならず、ヨーロッパへと広がっていく様子が描かれています。
今日の聖書箇所は、聖霊に促された使徒パウロが、いよいよヨーロッパに渡りフィリピという町で宣教の働きをしていた時の話しです。この16章の文章に「私たち」という言葉がでてきます。ここまではパウロたち一行のことを「彼らは」と表現してありました。しかし、この章から「私たち」となっている。つまりこの使徒言行録を書いたルカがパウロと出会って合流したのがこの16章であるとされているのです。今日の聖書箇所の少し前16章8節にトロアスという町に滞在したことが書かれています。ここでパウロとルカは出会い、行動を共にしたので今日の聖書箇所も「私たちは」と始まっていてルカもパウロと一緒にいたことが分かります。この二人の出会いが、やがて『ルカによる福音書』を書くことに繋がっていくわけですから運命の出会いと言っていいでしょう。パウロとルカを出合わせたのも聖霊の働きによるものです。
Ⅱ. 聖霊の働き
今日の聖書箇所はフィリピにおける聖霊の働きを見ることができます。16節「私たちは、祈りの場に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った」。ここに聖霊ではなくて、占いの霊がでてきます。占いの霊に取りつかれている女性が、幾日もパウロたちの後に付いてきて「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と、宣伝してくれるのです。宣伝してくれるのならいいじゃないかと思われるかも知れませんが、相手は占いの霊に取りつかれている女性です。それを聞く人はどう受けとめたでしょうか。その神は、ギリシャ神話の神とか他の神々とも、受け取れるからです。パウロは占いの霊の働きを見破って
いました。それはパウロに宿っている聖霊の存在に、この女性の中にいる占いの霊が反応していると分かっていたからです。
イエス様が宣教をされている時も、「ああ、ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(ルカ4章34節)。と男に取りついていた悪霊が反応したことがあります。その時の悪霊と同じように、女性の中にいた占いの霊は、パウロの中にいる聖霊に反応して、パウロの後から付きまとったのです。パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言いました「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」。すると、悪霊は即座に彼女から出て行った。パウロは、女に言ったのではなくて、悪霊に対して言いました。パウロは、この女の叫びが、悪霊によるものであることを見抜いていたわけです。
Ⅲ. 真夜中の賛美
しかし、ここで一つ問題が起こりました。それは、この女が奴隷であり、主人たちはこの女の占いによって多くの収入を得ていたのです。彼らにとって、金もうけの源がいなくなってしまった。そこでパウロとシラスを捕らえて、高官たちに引き渡したのです。
22節「高官たちは、二人の衣服を剥ぎ取り、鞭で打つように命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢屋に入れ、看守に厳重に見張るように命じた」。
これは、勿論不当な扱いです。当時からユダヤ人に対する迫害があったようです。ユダヤ人は他の人達とは一緒に食事をしないといった閉鎖的に見られる文化をもっていましたから摩擦があったようです。高官たちは、パウロとシラスに弁明する機会も与えず、一方的に彼らを鞭打ちの刑にして牢に入れたのです。
二人はこの不当な扱いにさぞ悔しい思いや恨みをもったことでしょう。ところが、その晩パウロとシラスの牢から賛美の声が聞こえてきたのです。他の囚人たちは驚いたと思います。そして、思わず聞き入ってしまったのです。牢屋とは罪を犯した者が入れられる世の中からはじき出された人達がいる所です。牢の中の生活には、何かに感謝したり誰かを褒め称えるといったことはないのです。その牢でパウロとシラスは神をほめたたえていた。パウロとシラスは、神に向かって不満を言ったり、嘆いてもよかった。けれども、彼らは、真夜中の牢屋の中で神を賛美したのです。
二人はどんな思いでいたのでしょう。彼らは全く不当な扱いを受けました。想定外の出来事です。このような出来事には、神様が関わっていると思ったのでしょう。不思議な出来事には神様が関わっている。自分たちが鞭で打たれ、投獄されたことには、何らかの神のご計画があったに違いない。この出来事を通して、神様が何かを成そうとしておられることを信じる。この出来事には神様の何らかのご計画がある。きっと、すべてを益としてくださるに違いない。それに感謝、そして賛美。さらに、二人が歌う歌に他の囚人たちは「聞き入っていた」とあります。神をたたえる歌に、心が癒やされるような思いがしたのではないでしょうか。そうして囚人たちの心に変化が起こっていったのです。
歌には力があります。先日、うちの4歳の息子が動画で映画「サウンド オブ ミュージック」のドレミの歌を歌っているシーンを繰り返し見ていました。山々に囲まれた緑の草原で、歌を歌う主人公のマリア。この物語は暗い時代でした。ナチスドイツがオーストリアを併合して進駐してきた時でした。まさに真夜中の暗闇のような状況で、あの美しい歌の数々が歌われていたのです。映画の中で歌われた曲に「すべての山に登れClimb every mountain」という歌があります。「すべての山に登りなさい、すべての川を渡って、すべての虹を追いかけて、あなたの夢をつかむまで」という歌詞です。マリアがトラップ家から飛び出して、もといた修道院に戻って懺悔した時、修道院の院長がマリアを励ました歌です。私は「すべての山に登れ」とは、あの山もこの山も、くまなく山を登れという意味だと思っていました。しかし調べましたら、山があったら、「Every その都度」登りなさい。つまり人生は山もある、谷もある、山が来たらその都度、山に登りなさい、谷が来たらその都度、谷を渡りなさい。人生は止まらない、自分の愛を与え続けて、山を越えて、谷を越えなさい。という意味だと知りました。院長はそうして苦難にあったマリアに一歩踏み出すように励ましたのです。この歌は映画のラストシーンでも使われています。トラップ大佐と結婚し、子ども達の母親になったマリアと家族たちが、自由を求めて国境の山を越えるシーンです。戦争が忍び寄る暗闇のような中でマリアの愛は歌を通して家族を一つにしました。山を越えて、その先に希望があるというメッセージが伝わってきました。
Ⅳ. 「主イエスを信じなさい」
パウロとシラスの賛美にも希望がありました。鞭を打たれて牢獄に入れられた、それでも二人は前を向いて賛美していました。すると突然、大地震が起こります。そして、たちまち牢の戸がみな開き、すべての鎖が外れてしまうのです。この大地震で目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人が逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとしました。死んで責任を取ろうとしたのです。けれども、パウロは大声で叫びました。28節「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」鍵が開いているにもかかわらず、囚人たちは誰一人逃げていませんでした。なぜ、逃げなかったのだろうか。それは他の囚人たちがパウロとシラスの歌声に聞き入っていたので、神がパウロとシラスと共におられることが他の囚人たちにも分かったからです。二人が賛美する神様が真の神であると感じたのです。死のうとしていた看守は、震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出してこう言いました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。パウロの答えは明確です。「主イエスを信じなさい」。そうです。イエス・キリストこそ、私たちが信頼すべきお方です。全てのものは移り変わって行きますが、このお方は決して変わることがありません。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ人への手紙13:8)
「主イエスを信じなさい」。イエス・キリストを信じるとは、いったいどういうことでしょうか?この看守はイエス様の姿を見ることはできません。それは私たちも同じです。そのイエス様を信じるとは何を意味するのでしょうか。それは、キリストが十字架で死なれたのは、私たちの為に死んでくださったと信じること。復活されたことで、私たちが永遠の命に預かることができると信じること。キリストは今も生きておられ、聖霊によって、私たちに苦難があったとしても、その先に最善の道へと導いてくださるということです。つまり、主イエスを信じるということは、自分とイエス様が今も関わりがある、救い主であることを信じるということです。自分とイエス様との関係が今も、しっかりあるからこそ、不当な扱いをされても、痛い思いをしても、それが高い山を登るような、深い谷を渡るようなことであってもイエス・キリストとの関係において、神様は最善を成してくださると信じることができるのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書16:33)
山があったら山をこつこつと登ろう、谷があったら一歩一歩渡って行こう、山も谷も、神様が成される最善の道への一部なのです。
苦しい時、試練に出会った時に神に感謝するのは難しいことです。そんな時、賛美歌が役に立つと思います。パウロとシラスも讃美歌を歌って励まし合っていました。ですから、なかなか感謝できない時は、まず讃美歌を歌うといいと思うのです。
苦しい時にこそ、神を賛美し感謝する。そうして、神様が何をなしてくださるかを期待していきましょう。
お祈りをいたします。