カテゴリー
主日共同の礼拝説教

宣教への派遣

和田一郎副牧師
イザヤ書2章2-5節
使徒言行録 13章1-12節
2022年7月3日

Ⅰ. 「宣教のための教会」

先週もお話しましたが、使徒言行録の主役は聖霊です。13章1節にあるように今日の話しはアンティオキア教会での聖霊の働きです。アンティオキア教会は、エルサレム教会で迫害がおこり、それによって逃げてきた信仰者たちが、ここに集まってできたのです。注目したいのは、この教会が出来た時は信徒たちが自発的に集まってできた教会だということです。パウロやバルナバは後から協力しに来たのであって、はじめは信徒による教会でした。この町は貿易の盛んな大きな町でしたから、多種多様な人種の人達がいて、この教会もさまざまな人たちで構成されていました。
価値観の違う人達を結び合わせていたのは聖霊の働きです。そのアンティオキア教会の噂が11章の後半に書かれてあるように、エルサレムにも聞こえてきたので、エルサレム教会はバルナバという聖霊に満ちた人物をアンティオキアに送り、このバルナバが、かつて迫害者として恐れられていたパウロという男を探し出してアンティオキア教会にスカウトしてきたことによって、教会は大きくなったのです。このアンティオキア教会に集う人達は「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。
大きく成長したアンティオキア教会に、新たに聖霊の働きがありました。2節「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。」とあります。教会を大きく成長させた二人を、教会の外の働きに送り出すと言うのです。これはいったどういうことでしょうか。今日の教会でも、教会が大きくすることは望ましいことです。もっと大きな教会にしようと考えたら、二人を送り出すのは、もったいないと感じるのではないでしょうか。
そもそも教会を立てる意味は何でしょうか。私たちの所属するカンバーランド長老教会の『信仰告白』には「神は宣教のために教会を立てられる」(カンバーランド長老教会信仰告白5:00)とあります。
教会は宣教のために立てられたのです。また、ローザンヌ会議というキリスト教世界会議では「教会は、神の宇宙大の目的の中心であり、福音伝播のために神が定めた手段である」と、つまり教会とは福音伝播(宣教)の手段だとされているのです。普段の教会活動で目を向けがちなのは、教会に所属する教会員同士の、交わりや、学びや、教会内の奉仕が多いように思います。しかし、私たちの『信仰告白』や世界会議で

言われているように、教会の本質的な意義とは宣教にあるということです。宣教というのは教会の外にいる信仰を持たない人に働きかけることです。
宣教には二つの要素があります。内側に向けて働く「求心力」と、外に向けて働く「遠心力」。宣教の求心力というのは、教会の外にいる人を中に招き入れる働きです。出エジプトの時に、イスラエルの民の中に、多くの異邦人(雑多な人々)がいたのです(出12:37~38)。彼ら異邦人もシナイ山で十戒と律法を受け、新しい契約に与った。そして、荒れ野での礼拝は、異邦人が神の前に出ることができる場でした。
一方で宣教の「遠心力」は、教会の外に出ていくことです。ヨナはイスラエルの敵国であるニネベに行きなさいと神様から言われましたが、反対方向のタルシシュへと逃げようとしました。しかし結局は根負けしてニネベに行き宣教したのです。それが神様の御心でした。招くだけではなくて、自分から出て行って主なる神を宣べ伝えることを求められたのです。
今日、朗読をしたイザヤ書2章2節以下の御言葉。「すべての国々が流れて来る。多くの民族が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる』」(イザヤ書2:2~3)と書かれています。「ヤコブの神の家」とはエルサレムの神殿を指していますが、同時にキリストの体なる「教会」を意味しています。これは、すべての民族にキリストによる救いの道が教会を通して開かれるという預言であって、旧約聖書の時代から神様は、世界中のすべての人に、真の神を宣べ伝える「宣教」という働きを信仰共同体に求めてきました。宣教は教会の本質ですし、教会の本質は宣教を考えることなしに理解することはできません。

Ⅱ. パウロとバルナバを派遣する

アンティオキア教会で、新しく異邦人宣教の働きを託されたのは、パウロとバルナバでした。教会の指導者たちは、「パウロとバルナバの上に手を置いて」とあり、これを按手と言います。按手はその人を祝福したり、任職する時にする行為です。洗礼を受ける人や長老・牧師になる人に対して、教会の指導者たちが、役割を与えたり祝福する特別な教会的な行為です。
こうして、バルナバとパウロの宣教旅行が始まりました。当時キプロス島で総督の地位にあったのはセルギウス・パウルスという人物でした。この総督のもとには偽預言者が出入りしていましたが、パウロはこの偽預言者を「悪魔の子」、つまり悪霊によるものだと見抜いていました。そしてパウロの予言した通りに偽預言者は視力を失い目が見えなくなってしまいました。総督はこの出来事を見ていたので、信仰に入ったというのです。こうしてパウロとバルナバを中心とする宣教チームの働きが周辺諸国へと広がっていきました。

Ⅲ. 「教会」と「宣教チーム」

パウロとバルナバたちの宣教チームは、アンティオキア教会から送り出されました。「教会」と「宣教チーム」という両者の関係は、2千年もの間キリスト教会の伝統の中で大切にされてきました。例えば、カトリック教会では、地域のカトリック教会と、宣教を担う修道院・修道会との関係。プロテスタントでは地域教会と宣教団体を通して、世界中に宣教師を送っていきました。日本に宣教に来たザビエルはイエズス会という修道会の人物です。現在、アメリカのルイビル教会の佐藤岩雄先生は、日本中会の宣教師として、日本中会から送り出されているのです。教会はなぜ宣教師を送るのでしょうか? 教会の目的は宣教だからです。高座教会は、大和市周辺の宣教のために立てられましたが、この地域だけではなく日本と世界の宣教にも目を向けるように教会は求められています。これは教会員全員が担う働きです。教会の存在意義は宣教ですが、世界中の宣教も担っています。ですから送り出した宣教師は、自分達ができない働きを代わりに担ってくださっているのです。その模範となっているのがアンティオキア教会と使徒パウロ達の働きです。
私が東京基督教大学で学んだ資料があります。
「聖霊は教会と宣教チームとの《協力》を生み出す。というのも、宣教チームの出現には聖霊のイニシアティブがあったからである。アンティオキア教会にパウロとバルナバの宣教チームを起こさせたのは聖霊による直接的な召命であった(使徒13:2)。彼らの召しを確かめる役割を担ったのが教会であった。宣教チームは聖霊に満ちた教会と同じ思いをもつ自発的な集団で、聖霊が彼らを任命している。教会が『二人の上に手をおいて』ということは、互いに共通した使命への参画と、彼らとの別れのための祝福の祈りを意味する象徴的なものであった」。教会と宣教師を、協力関係で結ぶのは聖霊の働きだと倉沢先生は教えてくださいました。

Ⅳ. 高座教会の宣教の担い手

高座教会は二組の信徒宣教者を送り出しています。信徒宣教者は、日本国内・海外にも行かれて、高座教会の宣教活動を担ってくださり、逆に日本や海外の宣教課題を私たちに届けてくださっています。
柳沢美登里信徒宣教者は、大学の医学部で保健学を専攻されました。その大学からは国家公務員や研究者になる人が多かったそうですが、柳沢さんはキリスト教主義の宣教団体の宣教師として、バングラデシュに行き、12年間スラムで貧困層の親子への保健の啓発活動などをされました。どうして、そのような働きを選んだのでしょうか。柳沢さんが洗礼を受けたのは大学1年の時だそうです。大学受験では一浪して、自分の思い通りにはいかない現実を身にしみて感じたときに「では私は何のために生きつづけるんだろうか」と考えざるを得なくなったそうです。世界全体では簡単な病気でお子さんたちが亡くなってしまう国もたくさんあり、自分がいるところで満足していては、いけないんじゃないかと。
それ以来イエス・キリストという方の生き様、言葉とどういうふうに自分が取り組んでいくかということを、ずっと問われ続けていると感じるそうです。日本人は自分の中の平安ということが、宗教がやるべきことだと理解されやすい。しかし、柳沢さんは宗教というものが家族や共同体、地域社会との繋がりとしても大切な役割がある。世界の人たちと繋がり続けられたらいいと語られました。それはまさしく宣教の働きです。バングラデシュとは今も繋がりをもたれていて、その後、福島の被災地にも行かれ、現在はウクライナのユダヤ人キリスト者集会への支援を精力的にされています。
横山大輔兄は、この高座教会の教会学校に通って成長しましたが、信仰をもったのはアメリカに留学していた時だそうです。日本に帰国してから高座教会のメンバーになったのが2007年の冬。その後、ゴスペルシンガーとして全国47都道府県を周りました。東日本大震災の時、被災地の福島を神様に示された土地として3年ほど拠点を置いて伝道の働きをされました。しかし2015年に賛美集会が高座教会であった時に、「自分の教会を愛することは、キリストの体を愛すること、自分を愛すること」だと神様に示されたというのです。「もう一度、自分を愛するように、与えられた教会を愛そう」と。「与えられた教会を愛する」という思いは、高座教会を自分に与えられた賜物として受け取ったのだと思いました。その後、高座教会の信徒宣教者となり、2017年には和子さんと結婚して、夫婦二人で信徒宣教者として働かれています。
アンティオキア教会が宣教チームを送り出し、支援し続けたように、高座教会も宣教者を送り出して支えていくという使命があります。教会と信徒宣教者を繋いでいるのは聖霊の働きです。そして、信徒の皆さんもこの宣教の働きを担っています。この礼拝から派遣されて、自分の生活の場、職場や学校など世の中へと派遣されていきます。主は言われました。「私が前もって決めておいた仕事に当たらせるために」。お一人お一人が宣教の遠心力となって遣わされ、求心力となって友を招いていきましょう。
お祈りをいたします。