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主日共同の礼拝説教

神の計画

和田一郎副牧師
サムエル記下7章8-17節
使徒言行録13章13-25節
2022年7月10日

Ⅰ. パウロの説教

先週の聖書箇所から、パウロとバルナバがアンティオキア教会から、異邦人伝道の宣教者として送り出された出来事を通して、聖霊の働きによって宣教の働きが始まったことを分かち合いました。この13章からサウロからパウロという呼び名が使われています。名前を変えたのではないのです。パウロは名前を使い分けていたようです。使徒言行録を書いた著者ルカは、ユダヤ人として描写する時はヘブル語名サウロと書き、異邦人伝道者として描写する時はパウロと書いたと言われてます。ヘブル語名のサウロという名前をユダヤ人が聞けば、イスラエル最初の王サウルと同じ名前なので、パウロはベニヤミン族の正真正銘のユダヤ人だと分かります。ギリシャ語名のパウロは当時ごく普通の名前であったそうです。ギリシャ語やラテン語を使う地域の人たちにとっては馴染みやすい名前であったようです。
14節、パウロたち一行は次の宣教地である、ピシディア州のアンティオキアに到着して、まず出向いたのが「会堂」でした。「会堂」と書かれている箇所は、原文にはシナゴーグと書かれていす。シナゴーグは、ユダヤ教の礼拝をする場所ですが、現在のキリスト教会の原型となりました。パウロたちは異邦人宣教のために送り出されたのに、なぜユダヤ人のいるシナゴーグに行ったのかというと、パウロは「…福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ローマ書1章16節)と考えていましたから、まずユダヤ人に伝えてから、次に異邦人へ伝えようと考えたのです。当時のユダヤ人というのは3分の2が祖国以外の諸外国に住んでいたと言われています。紀元前500年頃起こったバビロン捕囚を通して、ユダヤ人たちは世界中に散っていたのです。今日の聖書箇所でもパウロたちはシナゴーグに行って礼拝を捧げていました。
パウロは会堂で説教をする機会を得ました。まずイスラエルの歴史から話し始めます。歴史を通してパウロが伝えようとしているのは、イスラエルの民に対する神様の導きです。神様がイスラエルの民の歴史を常に守り導いてこられたことを振り返っているのです。17節「…神はわたしたちの先祖を選び出してくださった」、そしてエジプトで「強大なものとしてくださった」エジプトから「導き出し…荒れ野で彼らの行いを耐え忍」んでくださった。さらに約束の地カナンへと導き入れて下さったことを振り返っているのです。さらに、カナンの地でイスラエル王国をたてて下さり、ダビデを王の位につけ神は宣言した『私はエッサイの子ダビデを見いだした。彼は私の心に適う者で、私の思うところをすべて行う』(22節)。これがダビデ契約です。神様はこの「ダビデ契約」という約束に従って、ダビデの子孫から救い主イエス様を送ってくださったのだと述べました。さらに、パウロはこのイエス・キリストを人間は十字架に架けて、三日後に復活をされたのは、旧約聖書の預言の成就なのだと、旧約聖書の言葉を引用ました、そして最後に次の言葉で締めくくります。38、39節「だから、兄弟たち、この方による罪の赦しが告げ知らされたことを知っていただきたい。そして、モーセの律法では義とされえなかったあらゆることから解放され、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。
このシナゴーグにいたのは、ほとんどがユダヤ人です。つまり旧約聖書しか信じていないユダヤ教徒の人達に、「この方」つまり「イエス・キリストによる罪の赦しが告げ知らされたことを知っていただきたい」と、福音を力強く語ったのです。ユダヤ人たちは律法を中心とした信仰生活をしていました。人が罪を犯さないために律法を守らなければならない。律法に従っていれば罪を犯すことはないと考えていた。しかし、パウロの説教はイエス・キリストによらなければ罪の赦しは成されないと宣言したのです。38節に「この方による罪の赦し」とあり、39節には「信じる者は皆、この方によって義とされる」と。義とされるというのは、キリストによって罪赦されると述べたのです。
このパウロの説教の内容は、当時のユダヤ人の罪意識とは、随分違うものであったのではないでしょうか。自分が犯してしまう罪というものは律法によってコントロールできるもの、自分の力で何とかできるものだと考えている人が多かった。ユダヤ教にもさまざまな宗派があって一括りにすることはできませんが、しかし律法を生活の中心にしてい人たちは、律法を守ることによって罪を防ぐことができる、もしくは赦される、律法によって罪をコントロールできると考えていたのです。それは他人事ではなくて、現代の私たちも、善い行いをすることによって、自分は罪を犯すような者ではないという思いがあるのではないでしょうか。38節にあるパウロの言葉「この方による罪の赦し」と言われても、その「罪」の対象は、自分ではなくて他の人だと感じる人が多いのではないでしょうか。

Ⅱ. 日本人の「罪」意識

パウロがイスラエルの歴史を振り返ったように、私たちも日本の歴史を振り返ってみたいと思うのです。 日本で長く続いた武家社会は日本人の精神性に影響を残したと思います。武士が社会を実効支配するようになったのは鎌倉時代からです。また同じく日本人の精神性に影響を与えた仏教も、この鎌倉時代に起こった鎌倉仏教と呼ばれる法然や親鸞たちの仏教が今も影響を残しています。
今、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されています。見ていて人が無残に死ぬ場面、もしくは虚しく殺される場面が多くて辛く感じてしまうのです。その反面あの殺伐とした時代をよく表現していると思いました。源頼朝は、自分のために命がけで戦ってくれた家臣や親族たちを疑ったり、恐れたり、時には見せしめの為に次から次へと人を殺してしまう。戦さだけではなくて、度重なる飢饉があって人の死が身近にある時代でした。しかし、当時の坂東武士の一人、熊谷直実(くまがい なおざね)は、義経と共に一ノ谷の戦いで、大いに名をあげたのですが、熊谷直実は平敦盛という、自分の息子と同じぐらいの年頃であった若者を殺してしまった。その罪の意識をもった熊谷は、武士の道を捨てて仏の道へと出家するのです。
あのような時代であっても人の命を取ってしまった罪の意識、自分の罪に悩む人がいたのです。また、熊谷が出家した先が、法然だったのです。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と、善人が救われるのだから、悪人であっても救われる、と説いたのは法然の教えでした。若者を殺してしまった熊谷が、人はだれでも悪人であり、そういう人こそが、信仰によって救われると教えた法然の教えに、すがるような思いで救いを求めたのです。ある研究者が言うには、「悪人」という言葉を聞いて、ドキッとして自分のことだと思う人が鎌倉時代は多かったというのです。戦のために人を殺し、食べ物の為に命をとるというのが日常にあった時代、「自分は悪人だ」と思う人が多かった、だから、法然や親鸞のような「悪人こそが救われる」という教えに、多くの人が救いを求めたというのです。今の時代の私たちは「悪人」「罪人」と言われても、「それは自分ではなくて他の人でしょ」と素通りしてしまう時代です。実はあの荒んだ時代の方が罪の意識に敏感であったのではないでしょうか。源頼朝が死んだ後、政治の実権を握っていくのは北条政子です。その北条政子も、法然に何度も手紙を書いて、教えを願ったと言われています。政権を握るまでに多くの命が奪われた、その権力の中心にいた人にとっても、法然の、「悪人こそ救われる」という教えが必要であったというのは、あの時代の人たちは現代人よりも、自分の罪の意識に向き合う心を持っていたのかも知れません。

Ⅲ. 人間の罪の問題

パウロは始めて訪れた町の会堂に入り、ユダヤ人たちに向けて説教しました。38節「だから、兄弟たち、この方による罪の赦しが告げ知らされたことを知っていただきたい」と。イエス・キリストを信じさえすれば罪が赦されると、パウロは力強く語ったのです。キリストを救い主と信じる信仰さえあれば救われる。16世紀の宗教改革者ルターは、パウロの教えを「信仰のみ」という言葉で整理しました。罪の赦しはキリストを信じる「信仰のみ」だとされて、プロテスタント教会の福音理解の中心となっています。
でもちょっと待ってください。信じるという信仰のみと言いながら、パウロは人を愛することを求めていますし、「いつも善を行うように努めなさい」(1テサロニケ5:15)と聖なるきよい生き方を求めている。「信仰のみ」と言いながら、どうして追加して人を愛すること、善を行うことを求めるのか。実はパウロ自身が宣教しながら直面したのは、信仰をもったクリスチャンたちが、再び罪を犯してしまう現実でした。信仰をもったはずなのに、罪を繰り返す現実です。だったらキリストを信じる信仰をもつ意味がないじゃないかと思えてしまうのです。
しかし、罪がなくなるのが「信仰」ではありません。勿論、キリストの十字架による贖いによって、生まれてからずっと抱えてきた罪はなくなりました。しかし、信仰をもったからといって罪を犯さない人間に変わったわけではないのです。信仰で自分の罪を抑え込んだり、コントロールできるものではない。パウロは言いました「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ書 3:10)。信仰をもっても罪は犯してしまう。イエス様は、生れつき目の見えない人と会った時、弟子たちに「誰が罪を犯したのですか」と聞かれて、誰の罪でもない「神の業がこの人に現れるためである」と言われた。罪の原因よりも目的を示された。私たちは善を行おうとしても罪を犯してしまいます。それを分かっておられる神様が、自分の力ではなく、頼るべき人に心を向けさせようとされるのです。愛そうとしても愛せない罪深い自分に、いったい自分の力だけで何ができるというのか。人を愛そうとしても善を行おうとしても壁にぶつかる。それを分かっていて神様はイエス様をお与えになったのです。この自分が罪人であることを自覚して、赦しを求めるところに「神の業が現れる」のです。わたしたちが罪人であるが故に、悪人であるが故に、自分の力に頼らずイエス様を信じる信仰によって最善へと導いてくださいます。パウロの説教の核心は、39節「信じる者は皆、この方によって義とされる」。この方は、私たちの罪のために十字架で死なれました。三日後に復活され、今も生きておられ罪人である私たちを愛してくださっています。この方に依り頼んで歩んでいきましょう。
お祈りいたします。