松本雅弘牧師
出エジプト記12章1-13節
ヨハネによる福音書1章19-34節
2022年7月17日
Ⅰ. はじめに
6月18日(土)第191回カンバーランド長老教会の総会に出席するため渡米し、当初、28日に帰国する予定でしたが、私たち夫婦が次々とコロナに罹患し、先週の月曜日、ようやく帰国することができました。
その間、高座教会の皆さんには、多くの祈り、また温かな励ましの言葉をいただきました。また和田先生が2週間にわたって、礼拝説教の奉仕を代わってくださり本当に感謝でした。その間、皆さまには、ご心配、ご迷惑をおかけし、本当に心苦しく思っておりますが、このように帰国できたこと、共に礼拝を捧げることが出来た恵みを、心から感謝しています。本当にありがとうございました。
さて、今日の聖書の個所からヨハネ福音書の本論に入っていきます。主イエスの先駆けとして登場した洗礼者ヨハネに焦点を当てながら、御言葉に聞き入っていきたいと思います。
Ⅱ. 証し者としてのヨハネ
クリスマスになりますと、子どもたちは「神さまのお約束」という賛美歌を歌います。「むかしユダヤの人々は/神さまからのお約束/とうとい方のお生まれを/嬉しく待っておりました」という歌詞ですが、まさにその通り、イスラエルの歴史はメシア・キリストを待つ歴史でした。そうした状況の中で洗礼者ヨハネが現れた。そして人々は彼を見て、「もしかすると彼がメシアからもしれない」と考えたというのです。
そして、この問いかけは当時の人々からすると切実でした。その証拠に、普段は水と油の関係にあった祭司とファリサイ派の人たちが首をそろえてヨハネのところにやってきて、「あなたはどなたですか」と尋ねたのです。そうしますとヨハネは「私はメシアではない」と答えました。この答は受け取り方によっては、とても傲慢に聞こえます。「誰がお前なんか、メシアだと思っているのか」と反発を買ってもしようがないような物言いです。ただヨハネは極めて自然にそう答えているのは、当時のユダヤ人たちが彼をメシアだと思っていた。それを肌で感じていたので、ヨハネは自分からはっきりと否定したのだと思うのです。
そうしたやり取りがさらに続きます。「では、何ですか。あなたはエリヤですか」。これに対して「そうではない」ときっぱり否定します。収まりの利かない彼らは、「あなたは、あの預言者なのですか」とさらに尋ねます。「あの」とは定冠詞、「あの特定の預言者」という意味で、聖書学者によれば「メシア」と同義語だそうです。ヨハネはそれも否定しました。
隅谷三喜男先生がよく言われる「人生の座標軸」のメッセージを思い出します。私たちは、神との関係、すなわち人生の縦軸をいただき、初めて自分を発見する。縦軸が定まらない時に、自分が分からない。特に現代は、私は誰であるかを、私がしていること、職業や肩書、いわゆるdoingによって私が誰であるかを定める/定義する時代です。
しかし、聖書は全く違った視点を私たちに伝えます。神さまとの縦軸で自分自身が誰であるかが分かって来ると、そうした自分にふさわしい生き方へと落ち着いてくる。背伸びをして自分を大きく見せるのでもなし自己卑下する必要も全くなくなる。等身大の私として生きることができる。聖書の言葉を使えば「謙遜」ということですが、ここでの洗礼者ヨハネと人々とのやり取りは、ヨハネの謙遜さ、神との縦の関係によって自分を見ていく、また生き方を求めていく、私たち信仰者の生き方の模範を見せていただいているように思うのです。
さて、このやり取りにしびれを切らしたユダヤ人たちは、「誰なのですか/あなたは自分を誰だというのですか」と質問したのに対してヨハネは「『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ者の声」だ、と答えたのです。
ここでヨハネが「主の道をまっすぐにせよ」と語った「主」とは神さまのお名前、「ヤハウェ」という固有名詞です。ヨハネのこの証言からすると「ナザレのイエスこそが、ヤハウェ/主なるキリストである」と認識していたということでしょう。そして自分は、そのお方のために「道を整える務め」を託された者、そのようにして主イエスを証しする者、それが神さまから私に託された働きなのだ、と自覚していた。「道を整える務め」を通して、主イエスを証しする証しが自分である、ということなのでしょう。
Ⅲ. 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」
ところで、ヨハネ福音書を読むうえで、「証し」という言葉は特徴的な言葉で、法廷で使われる専門用語だそうです。例えば、19節の「尋ねさせた」という言い方。続く20節の「公言してはばからず」という意味の言葉。さらに「『私はメシアではない』と言った」の「言った」という表現はいずれも裁判用語なのだそうです。つまり、福音書記者が、ここでイメージしていたのは法廷だったのではないか。つまり、主イエスが当時のユダヤ社会の人々から裁かれていて、それに対して、洗礼者ヨハネがまさに証言台に立たされ、主イエスが一体どのようなお方なのかを証言しているのです。
そうした中、洗礼者ヨハネは、主イエスを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と証言したのです。
ところで、この言葉を聞いたユダヤ人たちは、ピンと来たに違いない。この言葉は、旧約聖書の出エジプト記の記述が前提になっています。この時、洗礼者ヨハネが人々に向かって、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と証言した意味とは、あの最初の過ぎ越しの時に使われ、そして千年以上も続けて用いられてきた過ぎ越しの生贄としての小羊は、実は「the小羊」である主イエスを指示していた。そしてこの主イエス・キリストこそは、私たちを罪の奴隷状態から解放するために、主なる神ご自身が備えられたまことの犠牲の小羊なのだ。この神の小羊によってこそ、その罪が取り除かれる。こうしたことを、洗礼者ヨハネは、主イエスを指さし、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と証言することで、伝えようとしたのではないでしょうか。
Ⅳ. 私たちも証し人として召されている
出エジプトを経験したイスラエルの民は、しばらくするとシナイ山に導かれて、そこで十戒を授かります。それは出エジプトという出来事を通して救われたイスラエルの民にとってふさわしい生き方、歩み方の指針として与えられたのが十戒、つまり神を愛し、隣人を自分のように愛する、という生き方です。そしてもう一つは、神さまに愛されている自分自身を感謝して生きていく生き方です。
私が留守の間の礼拝で、和田先生は「教会は宣教のために建てられた」というカンバーランド長老教会の信仰告白を引用されて、私たち一人ひとりに与えられている証しの責任について触れました。洗礼者ヨハネは、正にそのことのために遣わされた人でしたが、同時にクリスチャンである私たちは、何らかの仕方で、主イエスを証しする者として召されていることを思わされるのです。
渡米する前日、生島陸伸牧師の葬儀がありました。葬礼拝の説教で、コリントの第二の手紙4章1節からのパウロが、私たちは壊れやすい土の器に、キリストの命なる聖霊をいただいている存在なのだ、といった個所から説教いたしました。
使徒パウロは、私たちをすぐに壊れてしまう脆い「土の器」と表現しました。でもそれで終わりません。「私たちは、この宝を土の器に納めています」という箇所です。生島先生はよく自分は足りない、欠け多き者だと語られました。ご自分を壊れやすい、いや既に傷のある土の器だ、と見ておられたのだと思います。
ただ本当に恵みなのですが、そうした欠けのある土の器が主イエスのものとなっていく時に、現実はそれで済まない。何故なら、クリスチャンとなるということは、その欠けや傷のある土の器に宝物であるイエス・キリストの命、すなわち聖霊が宿るからです。
すると不思議なことですが、器の欠けやひびのいった傷から、本当に柔らかな、温かで優しい光がこぼれて来る。それは美しい光です。生島牧師の生涯は、その光なるお方を指し示す歩み、そのようにして主を証しする歩みだったのではなかったかと思います。
このように考えると、私たちも何か肩に力を入れて「よし、証しするぞ!」というよりもむしろ、私たちが、あるがままの姿で愛され、大切にされ、欠けや傷のある土の器ですが、私たちがぶどうの木であるキリストにつながり、そのお方の命である聖霊が私たちの内側に宿ってくださる時に、不思議なことが起こる。私の弱さや傷やいたみという隙間から、命の光なるキリストが輝きだす。光なるキリストの素晴らしさが証しされていく。私たちはそのように生きて行けばよいのではないでしょうか。そのような意味でも、この洗礼者ヨハネの生き方は、私たち信仰者にとって、本当に大切な模範を示しているのではないでしょうか。
お祈りします。