カテゴリー
主日共同の礼拝説教

心を広げて

和田一郎副牧師
詩編119編25-32節
コリントの信徒への手紙二6章1-13節
2022年7月31日

Ⅰ. コリントの教会

先日、ある女性からご自分で書いた本を頂きました。その題名を見て思わず笑顔がでました。題名が『わたし五十歳です』とあったからです。女性が自分の年齢を題名にして本を出すとは、ユニークで素敵な方だなと思いました。キャリアコンサルタントの仕事で自衛隊の講習会に招かれた出来事が書かれていました。自衛官ばかりが並んでいる教室の講壇に初めて立つという緊張感の中で、「わたし五十歳です」と自己紹介をすると、会場の空気が和らいだそうです。大抵の女性が隠したがる年齢を、最初にポンっと心を開いて言われると、聞いた方も心がほっとしてしまいますね。
今日の説教題は、「心を広げて」としました。パウロはアジア・ヨーロッパの各地で、文化も価値観も違う人たちとどう向き合ったのか?わたしは心を開いて語るから、あなた達も心を開いて向き合って欲しい。それがパウロの宣教の姿勢でした。
コリントは現在のギリシアにあり、当時はローマ帝国の中でも有数の大都市でした。人種的にも多種多様な人達がいました。また、ありとあらゆる悪の温床であったと言われています。性的な不品行は日常茶飯事で、いくつもの異教の礼拝所がありました。ですから、唯一の神を伝えようとするパウロの苦労は絶えませんでした。さらに福音信仰をもっていても、それを捻じ曲げて教える者たちがいて、コリント教会は分裂状態に陥っていました。その教会に第一の手紙を送り、手紙を送ったことで、何とか立ち返る兆しが見えてきた。そのことにパウロは多いに慰められたと、書いた手紙が今日のコリントの信徒への手紙二です。

Ⅱ. 使徒としてのパウロ

しかし、それでもまだ、コリント教会の中には間違った信仰理解をする人がいました。パウロは忠告します。1節「私たちはまた、神と共に働く者として勧めます。神の恵みをいたずらに受けてはなりません」と言うのです。神の恵みを「いたずらに」ではなく誠実に受けなければならないと。せっかく真の福音がコリントに届いたのです。「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日」。キリストの十字架によって救いの道が開かれた、その恵みの時は、いつか先のことではなくて「今こそ」その時だと、パウロはキリストが再臨されることを意識しながら、間違った教えに惑わされている時ではない、「今こそ」正しい教えを受けいれるように忠告しているのです。そしてパウロは自分自身が何者であるかを伝えます。
4節後半「大いなる忍耐・・・苦難、困窮、行き詰まりにあっても、鞭打ち、投獄、騒乱、労苦、不眠、空腹にあって」きたと告白します。これらパウロの波乱に満ちた宣教の働きは、普通の人なら辞めています。せっかく命をかけて神様の働き人となって仕えているのに苦難の連続、非難の的です。しかしパウロは6節にあるように「純潔、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛によって・・・そうしています」。つまり、どんな苦難があっても「使徒」としての働きをやっているのだと証ししているのです。なぜなら当時、パウロは本当の使徒ではないと、パウロの使徒としての権威を汚す人たちがいたのです。使徒というのは特別な人です。イエス様が直接指名して、復活したイエス様に出会い、それを証しする人とされています。パウロは、かつてクリスチャンに敵対する迫害者でしたが、ダマスコへ向かう途上で、復活されたイエス様に出会い、「わたしの名を運ぶために、わたしが選んだ器である」(使徒9:15)と告げられたのです。パウロは使徒などではないと言う声に対して、7節「真理の言葉と神の力によって」使徒としての働きを果たしているのですと明言しています。その働きはどんな時でも変わりはありません。8-10節「栄誉を受けるときも、侮辱を受けるときも、不評を買うときも、好評を博するときにも、そうしているのです。私たちは人を欺いているようでいて、真実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかけているようでいて、こうして生きており、懲らしめを受けているようでいて、殺されず、悲しんでいるようでいて、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています」。
パウロは人を欺いていると罵られた、しかし、それは真実でした。パウロを殺そうとした人が幾人もいたでしょう。しかし、こうして生きている。パウロは資産と呼べるものなど、何も持っていなかったでしょう。しかし、必要なものは全て満たされていた。それは、どんな金持ちであっても、政治家やローマ皇帝であっても得られない、命をかけるに値するものです。信頼できる信仰の友と、信頼できる唯一の神がいる。そして何よりも人からの価値ではなく、唯一の神から、お前は私を迫害する者ではなく、私のために苦難を引き受ける働きをするようにと召しを受けた。使徒とされた。それは「真理の言葉、神の力によって」与えられている働きなのだ。パウロという、ひとりの人間の思いや力によるものではなく、神の業がこの身に起こっているのだと、力強く宣言するのです。だから、パウロは分かって欲しかったのです。コリントの信徒たちに、これまでパウロがしてきたことです。11節「コリントの人たち、私たちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました」。パウロは誰に対しても、どの教会に対しても、自分のことを率直に語り、心を広く開いて接してきたのです。

Ⅲ. 心を開いてほしい

フィリピの教会に対しては、次のように語っています。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした。しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」(フィリピ3:5-7)。自分が生まれた部族や、何者であるかについてさらけ出したのです。クリスチャンに対しては迫害者であったという恥ずべき事実も正直に明かします。ファリサイ派の中ではエリートでした。しかし、そのように誇っていた過去をキリストの故に捨てたのです。今は過去の名誉を屑だと考えている。そのように自分の歩んだ道のりを、さらけ出して心を開きました。
自分が心を開くことによって、相手にも心を開いて欲しい。なぜならば、心を開くということは、自分の心の中に、神様を受けいれるために必要なことだからですね。礼拝では「罪の告白の祈り」があります。人には言えない自分の罪を、神様の前に明らかにするのです。心の中にあるものをさらけ出して、赤裸々にして神様に聞いていただくのが罪の告白です。勿論、心を閉ざしていても神様は心の中もお見通しです。しかし、神様の御心は自分の罪を自ら差し出して欲しいのです。エデンの園で罪を犯したアダムとエバが、木の間に隠れていたように、自分の心の中を隠してもらいたくないのです。「心を開く」それが神様への信頼の証しです。心を開くところに、神様との関係が作られるからです。
「私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう」(黙示録3:20)。
わたしたちが心を開くなら、主は入ってきて共に食事をしてくださるのです。
人間はアダムとエバのように葉っぱで身を隠そうとしたいのです。罪ある人間が身を隠そうとするのを見て、神様が示してくださったのがキリストの十字架の愛です。
パウロは心を開いていましたが、相手のコリント教会の人達は違ったのです。12節「私たちは、あなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたのほうが自分で心を狭めているのです」。偽教師たちの教えに惑わされて、パウロのことを疑って心を閉ざしてしまっている。
コリントの教会は問題が山積していました。心を開いてパウロのことを受けいれる余裕がなかったのかも知れません。困難の中にある時に心を閉ざすというのは人間の防衛本能なのかも知れませんね。塞ぎ込んだ心を開かせてくれるのは何だろうか?それはやはり、キリストの愛、アガペの愛ではないかと思います。

Ⅳ. キリストの愛が心を開く

かつての「大草原の小さな家」という番組の中で「オルガの靴」というエピソードがあるのです。次女のローラにはオルガという友だちがいました。彼女は生まれつき片足が短くて足を引きずっていたのです。ローラは父親のチャールズに相談しました。オルガの足のことをどうにか出来ないか?父のチャールズは靴に細工を加えたら普通に歩けるのではないか?とオルガの父親の所へ提案しに行くのですね。「オルガの靴を作らせてもらえないか?」と。しかし「放っておいてくれ。オルガの足は生まれつきだ、運命に逆らう気はない」と。オルガを守れるのは自分だけだと思っていました。愛する娘がいじめられないように、家の中にいなさいと学校に行かせることにも反対だった。オルガの父は世間にひがんでいた。心を閉ざしていたのです。
しかし一緒に住むお婆さんは息子が間違っていると分かっていました。オルガには友だちが必要だと。息子には内緒でオルガの靴を作り直して欲しいと、持って行ったのです。ところがそれを察したオルガの父は、チャールズの家にやって来るのです。「余計なことをするなと言っただろう」と取っ組み合いになってしまった。その時、外から子ども達が遊んでいる笑い声が聞こえてきました。オルガの笑い声も聞こえる。何とオルガが厚底にした靴を履いて、みんなと同じように走り回って遊んでいるではないか?足のことでイジメられているどころか、友達と走り回る娘の姿を、初めて見た父は、自分はバカだったと、ひがんでいた自分を悔い改めて、娘を抱きしめるのですね。
世の中にある不条理にぶつかったり、他人との信頼関係が難しくなると、心を閉ざしてしまう。それは人間の防衛本能かも知れません。しかし、人は独りでは生きていけない、人が成長するためには、鉄が鉄によって磨かれるように、人はその友によって磨かれる。心を閉ざしていたオルガの父の心を開かせたのは、お婆さんやインガルス一家の愛。キリストの愛に触れた時、人は変えられていきます。
11-13節「コリントの人たち、私たちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。私たちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたのほうが自分で心を狭めているのです。子どもに話すように言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください」。
お祈りをいたします。