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主日共同の礼拝説教

主イエスに見つけられ、招かれて

松本雅弘牧師
申命記7章6-8節
ヨハネによる福音書1章43-46節
2022年8月14日

Ⅰ. もう一人の脇役―フィリポ

今日、注目しますフィリポという弟子は、共観福音書においては彼の名前が出て来るだけですが、ヨハネ福音書には、量は多くありませんがフィリポの言動が記録されています。今日は、そうした箇所を手掛かりに、フィリポという弟子にスポットを当ててみたいと思います。

Ⅱ. 主イエスに見つけられ、招かれて

43節によれば、主イエスは偶然フィリポに出会ったように読めますが、新改訳第3版は原文のニュアンスを汲みながら、「その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて『わたしに従って来なさい』と言われた」と訳し、主イエスがガリラヤに行くことを決心なさった目的はフィリポを見つけて、彼と出会うためだったことが伝えられています。
「ベトサイダ」とはガリラヤ湖の北側に位置する湖に面した町で、その名前自体が「漁師の家」という意味ですから、フィリポもペトロやアンデレ同様、ガリラヤ湖の漁で生計を立てる一人だったかもしれません。
ところでヨハネ福音書第一章には、アンデレ、ペトロ、フィリポ、そしてナタナエルと、何人かの弟子の名前が紹介されて、いずれの弟子も自分自身で主イエスに従うか、もしくは誰かに紹介してもらった場合でも、自分から求めて主イエスに接近しています。そうした中、このフィリポだけは、主イエスの方から近づいて行かれ「私に従いなさい」と招かれた点が特徴的であることが分かります。つまり全くの受け身なのです。この点については、あとで取り上げたいと思いますが、いずれにしても主イエスとの出会い方は一律ではないことを心に留めたいと思います。こうした事実は、私たちにとっては励ましになると思うからです。
さて、主イエスの主導権で弟子となったフィリポは、この後、どうしたかと言いますと、友人のナタナエルに自分の体験を分かち合っています。ところが、フィリポの投げかけに対してナタナエルは、「ナザレから何の良いものが出ようか」と答えました。しかし、これを聞いたフィリポは、その疑問に対し真正面から対応せず、ただ一言 「来て、見なさい」 と言ったとヨハネ福音書は伝えています。きっとフィリポは、ナタナエルの問題提起に十分に応えることができなかったのではないでしょうか。その証拠に、このあとフィリポが登場する全ての場面で同じような受け答えをしているのです。

Ⅲ. フィリポの頼りなさ

まず、最初に注目したい箇所は、ヨハネ福音書6章に出て来る「五千人の給食の奇跡」の場面です。その時、主イエスはフィリポに「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と尋ねるのですが、フィリポは困ってしまいます。「どこで買ってくればよいのか」と質問したのに対し全く答えずに「足りない、不可能だ」と答えた。たぶん事の重大性、緊急性は理解したのでしょうが、そのことで頭が一杯になってしまったのでしょう。彼の能力をはるかに超える投げかけだったからです。
もう一つ、こんなエピソードもありました。主イエスのエルサレム入城の時、ギリシャ人がフィリポを見つけ「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んできたのです。この時もフィリポは困ってしまったのでしょう。結局、弟子の中でも特に親しいアンデレに相談し、彼に判断してもらいました。
そして極めつけとして、最後の晩餐の席上、弟子のトマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょう。」(ヨハネによる福音書14章5節)と尋ねたのに対して、主イエスは、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知るであろう。いや、今、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのだ。」とお答えになります。前後関係からして質問をしたトマスも居合わせた他の弟子たちも、主イエスの答えの意味を理解し、その回答に満足をしたようなのですが、フィリポだけはチンプンカンプンだったようです。そこで彼は、「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と質問します。それに対して主イエスは本当に優しいお方です。フィリポをご覧になってこう答えたのです。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。」そうです。同じことを繰り返されたのです。

Ⅳ. フィリポを選び、愛された主イエス

フィリポという人は、様々な点で、〈足りなさ〉や〈物足りなさ〉を感じさせる弟子。〈気軽さ〉や〈人なつっこさ〉はあったとしても、彼と付き合い、彼を知れば知る程、十二弟子、初代教会のリーダーとしては〈頼りなさ〉を感ぜずにはおれない人物です。
ただ、このフィリポのことを思うと、このフィリポというごく普通の、私たちと何ら変わることのない男が「使徒」と呼ばれたキリストの弟子集団の一員に選ばれていた事実に、主イエスの深い愛を感ぜずにはおれません。
確かにペトロやパウロは優れた人物でした。能力がありました。パウロなどは投げかけられた質問を真正面から受けて立ち、福音の真理をもって相手を論破し、説得する力があったことを、彼の書いた十三の手紙を通して知ることができます。でも考えてみれば、主イエスの最初の弟子たち、全員が全員リーダー格のペトロやパウロのような人たちではなく、むしろ、余り目立たない、ごく普通の人たちだったのではないでしょうか。
いかがでしょうか?〈十二弟子の名前を上げてみなさい〉と言われて、何人の弟子の名前を上げることができるでしょうか。全ての弟子の名前を上げるのって、結構難しいのではないでしょうか。しかし、私たちの記憶から落ちるほどの人物も主イエスの十二弟子の中にいた。それも選ばれていた。その代表格が今日のフィリポです。
冒頭でお話しましたように、ごく普通の人フィリポを、主イエスの方で、わざわざガリラヤまで出向いて行って探し出し、「私に従いなさい」と招き用いようとされた。これこそが、神さまの選びですね。先ほどの旧約聖書の朗読箇所、申命記にありましたように、神の選びとは、〈貧弱な、取るに足りないものを神の宝とされる選び〉です。選ばれる側に理由のない選び、あくまでも神さまが愛してくださったから、という選びです。
フィリポは弟子集団の中で、時々、皆と比べて足りなさを経験したり、弱さを感じたりしたかもしれない。しかし、にもかかわらず、そうした自分という存在を見つけ出し、育て、導き、御手を置いて祈り続けてくださる主イエスのフィリポ自身に対する《熱い思い、眼差し》に触れる中で、彼は《自分が自分であることの深い意味》、《自分が自分であることでの満足》を味わうことができたのではないでしょうか。
そのような意味で、私たちも、この世の価値基準に従うならば、フィリポと変わらない、取るに足りない存在かもしれませんが、しかし、使徒パウロが、コリント教会に宛てた手紙の中で、「神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(Ⅰコリント1:27-29)とありますように、私たちの神さまというお方は、世間が無力で貧しいとみなす者を用いて、力ある者や豊かな者たちを恥じ入らせようとされる。まさに神さまの深い知恵にもとづいたフィリポの選びであり、同時に主は、フィリポのような私たち一人ひとりを見つけ出し、「私に従いなさい」と声をかけてくださっている。主イエスの、この招きに感謝をもって応えていく私たちでありたいと思います。
そして、「私に従いなさい」という主の招きに応えて歩む時、主はそのフィリポを用いてナタナエルをご自身へと導いてくださる。私たちの周りにも、私たちからの誘いや声掛けを待っている「ナタナエル」がたくさんおられるかもしれません。「収穫は多いが、働き人が少ない」と御言葉にありますが、救いを見たい人々がすでに備えられているのではないでしょうか。私たち自身が自分の足りなさや弱さにだけ目をとめず、むしろ、主の愛に励まされて心を高く上げながら、「来て、見なさい。救いを見て下さい。あなたの待ち焦がれていた方にお会いできるのだ、教会はそのためにあるのだ」と証しする私たちでありたいと願います。
お祈りします。