松本雅弘牧師
創世記27章18-27節
ヨハネによる福音書1章45-51節
2022年8月21日
Ⅰ. 最初の弟子たち
ヨハネ福音書第1章35節からのところに、「最初の弟子たち」という小見出しがついています。今月に入り、アンデレ、フィリポと、主イエスに従った初期の弟子たちについて学んできましたが、今日も「最初の弟子たち」の一人、ナタナエルについてスポットを当ててみたいと思います。
Ⅱ. ナタナエルのこと
さて、ナタナエルですが、彼は一体、どのような背景を持つ人物なのでしょうか。実は、よく分からないのです。マタイ、マルコ、ルカの福音書には、その名前すら出てきませんでした。ですから十二弟子の一人でもないのです。但し、このヨハネ福音書だけは、かろうじて名前だけ出て来ます。今日お読みしましたこの箇所と、もう一箇所、21章2節に一度だけ「ガリラヤのカナ出身のナタナエル」という名前が紹介されているだけです。
そうしたことを踏まえて、今日お読みしました、1章45節以下の箇所を見て行きたいのですが、フィリポがナタナエルを見つけ、彼の方に向かっていったことが分かります。そして、「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と声を掛けた。これに対してナタナエルはどうしたかと言いますと、先週も取り上げた言葉ですが、「ナザレから何の良いものが出ようか」と答えたのだ、とヨハネ福音書は伝えています。
この時のナタナエルは落ち着きはらっています。勿論、救い主が現れることについては、フィリポ同様、大いに関心のあることでした。でも、こともあろうに救い主が「ナザレ」から出るなどとは、とうてい考えられなかった。何故なら旧約聖書には一度も「ナザレ」という地名が出てこないからです。しかもこの時代、ナザレは、ナタナエルの出身地カナの町よりもずっとずっと小さな村だったようです。そうしたちっぽけな村ナザレと救い主キリストとを結びつけて喜んでいるフィリポがナタナエルには理解できなかったのでしょう。
それ故ナタナエルという人は、自分で得た知識に従って行動する、極めて常識的な人物だったと言えると思います。調べてみますと当時ユダヤでは、出身の村同士で〈どちらが上だの下だの〉といった競争があったようです。よくテレビでも栃木と茨木とか、埼玉の大宮と浦和それぞれの出身のタレントが出て来て、ご当地自慢をして争う、面白い番組がありますが、そうしたことが起こっていた。
この時のナタナエルは、「ナザレから何の良いものが出ようか」と言った彼の言葉からも明らかなように、小さな村ナザレを見下す思いが、いつしか彼の心の常識となり、心を支配してしまっていたのでしょう。そして、そうした常識というか、考え方が一度心の中に根付いてしまうと、違った見方をすることが難しくなる。そしてこのことは、私たち自身が、基本的に、変化を嫌う傾向があることを、よく物語っているのではないかと思うのです。そうしたナタナエルにとって、彼の殻を破る道は、「来て、見なさい」と招かれ、そのようにして主イエスと出会う以外になかったのかもしれません。
さて、こうしたフィリポの誘いに対して、ナタナエルは、と言えば、誘いを断る理由も見つからなかったのでしょう。フィリポに促されて付いていくのです。そして、出会った人物から、とても奇妙な言葉を聞くことになります。
主イエスは、御自分の方に向かって歩いて来る若者ナタナエルを見、「この人には偽りがない」とおっしゃった。ここに出て来る「偽り」という言葉は「魚を取るための仕掛け」を意味するギリシャ語が使われています。
さて、主イエスのこうした挨拶の言葉に驚いたのはナタナエルでした。確かにこの言葉は、ナタナエルにとって照れくさく、恥ずかしいような言葉だったでしょうが、一方で、とても嬉しい、光栄な言葉として心に響いたようなのです。そうした複雑な思いの中、「どうして私を知っておられるのですか」と主イエスに問い返したことを、福音書は伝えています。これに対して、驚くような返答が主イエスの口から飛び出します。「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」
いちじくの木は日差しの強いユダヤの地にあって暑さを避けるための絶好の陰を提供したと言われます。同時にそこは祈り瞑想のための信仰を育む場でもありました。自分のことをそこまでご存じのお方の言葉として、ナタナエルは受け取ったようなのです。
その結果、彼の人生に方向転換が起こります。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」ナタナエルは信仰告白へと導かれていったのです。
Ⅲ. 礼拝に招かれている私たち
ところで、今日も私たちはこのように礼拝に招かれ、主の御前に集っています。そしてどうでしょう。私たち一人ひとりはナタナエルと同様、ある種の「出会い」や「きっかけ」があって、礼拝を捧げる、この場へと導かれてきました。ただ、一人一人の「出会い」や「きっかけ」は様々です。でも一つだけ共通していることがある。それは「誰もが主イエスと出会った」という事実。そして、「主イエスが指し示す、新たな生き方へ方向転換していった」ということです。
ユダヤ人哲学者マルチン・ブーバーは「人間が最高の出会いの瞬間から出て行くときは、これに入っていく以前とはまったく違った人間になる」と語っています。そして私たちも、この出会いを求めて、礼拝に集ってきたのではないでしょうか。しかし礼拝が終わって、ここから出ていく時に、「これに入っていく以前とはまったく違った人間になっている」かどうか…。もし、そうでないとするならば、私たちは礼拝を通して主と出会っていない、ということなのでしょうか?最後にそのことに触れて終わりにしたいと思います。
説教のアウトラインに書いておきましたが、ヘブライ人への手紙の中に次のような御言葉があります。「気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と信仰によって結びつかなかったためです。」(新共同訳ヘブライ4:1b-2)
福音を告げ知らされているけれども、聞いた言葉が何の役にも立たなかった。つまり、礼拝に来たけれども、あるいは礼拝に通い続けてはいるものの、何の役にも立たない。私たち自身の中に、何の変化も起こらない。それは何故か?ヘブライ人への手紙によれば、「その言葉が、それを聞いた人々と信仰によって結びつかなかったため」だと言うのです。聖書の言葉、語られる聖書の言葉が私たちのものとなるためには、その御言葉を自分に語られた言葉として、自分に結び付けて聴く、同時に、信仰が伴なう、神さまへの期待が必要なのだ、ということでしょう。
Ⅳ. 「天が開ける」
主イエスは、私たちと出会うために来られました。最高の出会いの瞬間を与えようとやって来られた。そして出会った多くの人々は主イエスによって変えられ、新しい生き方をし、そしてその出会いの働きは今も続いています。
そして今日の箇所で主イエスはナタナエルに向かって、「もっと大きなことをあなたは見るであろう」、「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」とお告げになったのです。忙しく殺伐とした日々のただ中で、「天が開ける」と主は言われるのです。
先週の水曜日の「日々のみことば」で、ヨハネ3章14節と15節を取り上げて配信しました。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」という聖句です。
洗礼を受ければ何でも上手く行くというのではありません。主イエスでさえも受洗直後に悪魔の試みに遭われたわけですから。聖書が教える大切なことは、困難のただ中でイエスさまを見上げる時に、初めて困難に立ち向かう御言葉が与えら、様々な出来事を通して助けられる経験をする。何故?困難な出来事の多い毎日の生活の中にあっても「天が開け」ているからです。
モーセの時代、荒野に蛇がいなくなることはなかった。ですから、イスラエルの民がすべきことは、蛇に噛まれたら、主が命じられたように、ただただ青銅の蛇を仰ぐことなのです。私たちの生活にも問題が起こります。そこから逃げることはできません。逃げたら蛇が追ってくるかもしれません。そうした中、私たちがすべきことは、困難のただ中に、開かれている天を仰ぐこと、神さまを仰ぐことです。
現実から逃げるのではなく、その現実のただ中にあって、天、すなわち神の国の恵みの中に生きること、留まることができる。主イエスを通しての神との交わりが実現するのです。
主イエスは、私たち一人ひとりと出会い、私たちと共に歩んでくださる。フィリポのような者の傍らに、心頑ななナタナエルのような男の傍らに立ち、共に生きてくださる。そのために、主は肉の体を取り、私たちの内に宿ってくださったのです。
お祈りします。