松本雅弘牧師
コヘレトの言葉3章1-2節、11節
ヨハネによる福音書2章1-12節
2022年9月4日
Ⅰ. カナの婚礼
今日お読みしました聖書の箇所は、その公けの生涯の初めに、イエスさまがなさった奇跡、「カナの婚礼における奇跡の出来事」を伝えています。
場所はガリラヤの「カナ」という村です。名前が紹介されていませんが、若い二人の結婚式がおこなわれました。そこで主イエスが水をぶどう酒に変え、二人の人生の門出を祝福された。そしてメシアとしての最初のしるしを行なわれました。
当時ユダヤでは、結婚の祝いが一、二週間続いたと言われています。多くの人が祝福に訪れ、心のこもった料理とぶどう酒が振舞われたそうです。
そのところに主イエスの母親マリアがいました。イエスさまと弟子たちは「招かれた客」であったのに対し、マリアは台所に入って切り盛りする裏方さんです。この誕生したばかりのカップルはあまり裕福ではなかったのでしょう。マリアをはじめとする奉仕者たちは、最小限度の予算を最大限に生かして準備する必要がありました。ところが、計算違いか初めから足りなかったのか、ぶどう酒が底をついてしまうという緊急事態発生です。
こうした中、いち早く動いたのがマリアでした。〈あの子なら、どうにかしてくれるにちがいない。〉そう思って、息子イエスに助けを求めたのです。母親として極めて自然な感情に導かれるように、すでに何人かの弟子たちを引き連れ宣教を始めていた息子イエスが、自らがメシアであることを公言する時が来ているのではないか。いや、一日も早く、そのことを公言して欲しい、そう思って、母親マリアは、息子の背をそっと押すように、「ぶどう酒がありません」、「さあ、どうぞ御業を」と息子に水を向けたのでしょう。
そうした母親マリアの思いを主イエスは見抜いたのでしょう。「女よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」こうお答えになったのです。
さて、息子のこの言葉をマリアは冷静に受け止めた。息子を信頼し「この方が言いつけるとおりにしてください」と召し使いたちに伝えています。その結果ぶどう酒の奇跡が起こったのです。
Ⅱ. 御業という「しるし」が示す主イエスと出会う
ところで、ヨハネ福音書の専門家たちは、福音書を記した使徒ヨハネは、カナでの、この婚礼の出来事を通して、主イエスご自身こそが、私たちにとっての「最高のぶどう酒」であることを伝えたかったのではないかと語っています。その証拠に11節、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」とあります。ここに「しるし」という言葉が出て来ますが、実はこの言葉、ヨハネ福音書で特徴的な言葉で、この後、何度も出て来ます。「しるし」とは何かと言えば、別の何かを指し示すものです。しかもヨハネ福音書の場合、その「しるし」が指し示しているものは、信仰によってしか見極めることのできないもののようなのです。
ここに登場するほとんどの人は、ぶどう酒そのものに満足し、その「しるし」が指し示すお方を見失っているのです。実は「しるし」が指し示すお方に気づいた人たちがいました。9節、「水を汲んだ召し使いたちは知っていた」。そして11節、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」そうです。彼らがどのように気づいたか、それは主イエスが語られたとおりに、語られた御言葉を実践して行った時に気づかされた。水がぶどう酒に変わるという出来事に遭遇し、その原因が主イエスご自身にあることを知った。つまり主イエスご自身に触れ、そのお方の弟子となったのです。
そう言えば、この後、公生涯の締めくくりの場面、最後の晩餐の席上で主イエスは、こんなことをお語りになりました。「あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:8)
御言葉を聞くだけの者から、御言葉に従って生きる弟子となることで、父なる神さまは栄光をお受けになる、というのです。
Ⅲ. 最後に問われること
先週、教会員の方の葬礼拝で、中川博道という神父さんのこんな証しをご紹介しました。
中川先生が若かった頃、教会の青年会の奉仕で、墓所の清掃に出かけたそうです。そうしますと、同行した宣教師の司祭が、火葬場の見えるその場所で、「あなたたちには、この町の人々が、この火葬場に向かって一列になって順番待ちをしているのが見えますか」とぎょっとするような質問をしたそうです。中川青年は戸惑ってしまったのですが、宣教師はさらに続けてこう言ったそうです。「そうでしょう。この町の人たちは亡くなると、この火葬場で焼かれるのですから、本人は意識していないかもしれませんが、皆ここに向かって行列をして順番待ちをしているのです。『人生とは火葬場への待合室です』」。そして最後にこう締めくくられた。
「私たちが煙突から煙となって昇っていくとき、神の前に心一つで出ることになります。そのとき、どんな広大な土地や財産を所有していても、名声も美貌も才能の何一つ持っていかれません。そのとき、神は『あなたは何をもっていましたか』とも、『何をしましたか』とも聞くことなく、ただ、『あなたは誰ですか』と尋ねられるに違いありません」。
中川先生は、「これは青年時代に私の心に深く撃ち込まれた、くさびのようなもので、人生を考える上で決して外すことのできない一つの起点となった」と結んでおられました。
何でこの話を紹介したかと言いますと、私たちが主イエスに出会う。様々な恵みという「しるし」が指し示す主イエスに出会うことで何が起こるのかというと、そのお方に愛されている自分自身と出会う。自分は誰なのかを発見する。牧師をして来て、毎日、聖書を読み祈る中で、この中川先生の言葉は真実だと思うのです。
Ⅳ. 主の弟子、神の子として歩んでいく
ヘブライ人への手紙9章27節に、「人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっているように、」と教えられている。先ほどの神父さんの言葉を使えば、「私たちが煙突から煙となって昇っていくとき、神の前に心一つで出ることになります」ということでしょう。
私たちはその事実を、「そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます」と「使徒信条」をもって告白します。いわゆる「最後の審判」のことです。
最後の審判の席で、キリストが私たちに問うのは、「あなたは何をもっていましたか」でも「何をしましたか」でもない、「あなたは誰ですか」と問われる。
何故なら、私が持っているものも、あるいはしたことも、突き詰めていけばすべて出どころは恵み深い神さまに至る。そうした一つひとつの事柄や出来事は、神さまを指し示す「しるし」であり、その神さまにとって、私たちはそのお方の愛する子である、ということが最終的に問われるのではないでしょうか。審判席に着座されるお方は裁き主であると共に救い主なるお方ですから。
ですから、先ほどのヘブライ人の手紙の続きにはこう書かれているのです。
「人間には、ただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、救いをもたらすために、ご自分を待ち望んでいる人々に現れてくださるのです」(ヘブライ9:27-28)
今日はこの後、聖餐に与りますが、私は学生の頃、ちょうど聖餐式の礼拝で、司式の牧師が「よく自分を吟味した上で聖餐にあずかるように」と式文を読み上げた後、聖餐に与る資格がないと考え、回って来たパンとぶどうを取らなかったことがありました。
でも、その後、それは恐るべき誤解であると教会で教えていただきました。そのような罪深い私だからこそ、主イエスの十字架が必要だったのです。不誠実な歩みをしてしまったことを悔い改めた上で、なお私の赦される道はここにしかない、という信仰を持って、聖餐にあずかるのです。
ですから、私たちは、シミも傷も一切ないキリストという真っ白な衣を身に帯びて、最後、主イエス・キリストの御前に立つわけです。そして、長老教会の「信仰問答書/カテキズム」にあるように、「あなたは誰ですか」と問われたならば、「私は神さまの子どもです」と答え、「神さまの子どもであるとはどういうことですか」と尋ねられたのならば、「私が、私を愛してくださる神さまのものだということです。」と感謝をもって答えることが許されている。そして今この時から、この恵みに与っていることを、五感で味わえるようにと聖餐を与えて下さっている。
すべての恵みの源である、主イエス・キリストを信じ、そのお方の弟子として歩んでいきましょう。また主イエスの父なる神の愛する子どもとして生かされていることを、心から喜んで、この一週間、過ごしていきたいと願います。
お祈りします。