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主日共同の礼拝説教

主のからだなる教会

松本雅弘牧師
詩編69編6-19節
ヨハネによる福音書2章13-22節
2022年9月11日

Ⅰ.憤る主イエス

「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。」(13)
当時、都エルサレムには見事な神殿がありました。ご存じのようにエルサレムの神殿はユダヤ人にとっての心の拠り所でした。
この日、主イエスは神殿に入り、まず目にされたものが、「牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たち」の姿でした。すると突然、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」、鳩を売る者たちに向かって、「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない」と言われたのです(15,16)。
さて、当時、エルサレム神殿では犠牲の動物をささげるのが習慣でした。巡礼者の多くは、遠くはるばる自分の故郷から動物を引いてくることはできません。傷ついた動物を捧げることが許されません。ですからそこで供え物にする動物、また捧げもの用の様々な品物を調達することはごく自然なことでしたし、巡礼者のために、そうした物品を扱う店も必要でした。しかも神殿ではユダヤの通貨しか通用しませんでしたから、それぞれの地域のお金を両替する人もいたわけです。そうした巡礼者の足元を見、高値を吹っ掛ける商売人もいました。巡礼は信仰に促されての旅でしたから、特に貧しい人たちにとっては、旅費を工面するだけでも大変なことだったと思います。
ところが、こうした状況を知りながらも見て見ぬ振りをする。いや、人々の弱みに付け込み、背後で金もうけをしていたのが当時の宗教家たち、すなわち祭司であり、律法学者でした。この時、主イエスによって追い出された商売人や両替人は、いわば宗教家たちの縄張りの中で仕事をさせてもらい、裏ではしっかりとつながっていた。主イエスは、そうした仕組みを一瞬のうちに見て取り、神さまそっちのけで、金もうけに躍起になっている、そうした空気一色の神殿。いったい神さまはどこにおられるのか、いやどこに押しやられたのか、そうした状態を、主は瞬時に受け止めたのだと思います。
ここで主イエスが憤られた理由、憤りの矛先が少なくとも二つあったと思います。一つは、神殿が汚されている。言い方を変えるならば、神が神として敬われていない。そして、もう一つは、この神殿においてさえ、貧しい人々、立場の弱い人々が虐げられている。そうした人々の犠牲の上にあぐらをかき、甘い汁を吸っている人々がいたということです。
ですから怒りが爆発した。本当の愛というものは、時に怒りとして爆発するほどの情熱を内に秘めているものであることを知らされるのです。

Ⅱ.「あなたの家を思う熱情が私を食い尽くす」

さて、こうした主イエスの姿を目の当たりにした弟子たちの反応が出て来ます。「弟子たちは、『あなたの家を思う熱情が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(17)。ここに「~と書いてあるのを思い出した」と福音書記者ヨハネは伝えています。どこにこのような言葉が書かれているかを調べてみますと、詩編69編10節です。「あなたの家を思う熱情が私を食い尽くし/あなたをそしる者のそしりが/私の上に降りかかっています。」
つまり、主イエスは、神殿を神の家と受け止めておられた。その神の家に対する熱い思い、神の正義に対する熱い思い、と言い換えてもよいのではないかと思いますが、そうした思いが「宮清め」の行動となって現れたのでしょう。
ところで、ヨハネ福音書は全体で21章から成り立っています。使徒ヨハネは21章分の紙面を割いて、主イエスの教え、お働き、様々な御業を伝えています。主イエスのご生涯はおよそ三十三年間、その内、公生涯は僅か三年ほどです。この後、ヨハネ福音書を読み進めて行きますと、福音書のちょうど中間地点の第12章から受難週が始まる。つまりヨハネは紙面の半分を十字架に至る、受難の一週間に割いるのです。
今日の箇所に戻りますが、真剣に神殿を清める、主イエスのお姿を目撃した弟子たちが、詩編69編10節の御言葉を思い出したのだと書かれていますが、続く22節を見ますと、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」とありますので、もしかしたら、詩編の、この言葉を思い出したのも、主イエスの受難と復活の後だったかもしれません。

Ⅲ. 「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

さて、今度は怒ったユダヤ人たちは、「しるしを見せろ」と主イエスに迫っています。すると主イエスは彼らに向かい、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」とお語りになったのです。呆れたユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、三日で建て直すと言うのか」と語ったのだ、とヨハネは伝えています。
さて、この箇所を理解する上で、参考になる出来事がマタイ福音書24章に出て来ます。主イエスの弟子たちの目に神殿がどのような景色として映っていたかを物語るやり取りが出て来ます。「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。」(マタイ24:1)とあります。口語訳聖書では「イエスの注意を促した」と訳していました。実は、弟子たちの行動には一つの伏線があった。直前にお語りになった主イエスの言葉が弟子たちの心に引っかかっていたからです。「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」という主の言葉でした(マタイ23:38)。この言葉が弟子たちの心に刺さったままだった。
ですから、神殿の境内を主イエスと一緒に出て行こうとした時、彼らの目の前には、実に壮麗で荘厳な、それも木造ではなく石造りです。何十年も何百年も崩れずに立ち続ける建造物で「永遠の神の住まい」に相応しい堅固な建物です。その神殿が「見捨てられる」と予告されたのです。ですから、〈こんな立派な神殿なのに、本当にそうなの?!〉と「主よ、よく見てください。よく御覧になってください」と注意を促したわけです。
いかがでしょう。主イエスの弟子たちですら、そう受けとめていていたとすれば、ある種の神殿信仰を持って、神殿を誇っていた当時のユダヤ人たちが、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2:19)という主イエスの言葉を耳にしたら、激怒しても仕方ないと思います。

Ⅳ. 主のからだなる教会

 

さて、もう一度、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」という主イエスの言葉を考えてみたいと思います。実はヒントになるのが21節と22節の記述です。「イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」
主イエスは、私たちの罪によって破壊されようとした神と人間とが交わる場を、三日で建て直すことを約束なさっている。そうです。十字架と復活でしょう。
19節で、「神殿を壊してみよ」という主の言葉を、この十字架と復活というキリストの御業と重ねて読むならば、「あなたは、この私を殺すであろう。そうするがよい」という意味の言葉になって響いてくるように思います。ただ「殺せるなら、殺してみろ」と開き直っておられるのではない。ある人の言葉を使えば、この時すでに主イエス・キリストは十字架の死を見据えておられた、覚悟しておられたのです。
ですから、19節の後半の言葉、「三日で建て直してみせる」というのは、イースターの出来事の予告、すなわち、復活です。先ほどの22節、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」ということです。
そう言えば、主イエスが十字架の上で苦しんでおられる時、「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って言った。『おやおや、神殿を壊し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。』」(マルコ15:29,30)と嘲笑した、と福音書は伝えています。十字架上の主イエスを「神殿を壊し、三日で建てる者」と呼んでいるのです。
たぶん、今日、御一緒に読んだ、この出来事が起こった時に、神殿の境内で語った主の言葉が、後に主イエスを馬鹿にする言葉として伝えられ、使われていたのではないか。しかし、私たちの主イエス・キリストは、そうした嘲りの言葉を、苦しみの絶頂であったであろう十字架の上で、しっかりと聞き、受けとめつつ、ご自身が実際に語った通りに実現してくださった。成就してくださった。その尊い御業を通して、キリストの体なる教会が、主イエスの十字架の贖いと三日の後の復活によって新しく始められた。
使徒パウロは、「あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)と語っています。主の体なる教会を建て上げるために、主は体を張って、いや命を捨てて、贖い取ってくださった。主に心からなる感謝をもって、共に賛美を捧げたいと願います。
お祈りします。