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主日共同の礼拝説教

豊かに蒔く人

和田一郎副牧師
エレミヤ書32章6-17節
コリントの信徒への手紙二9章6-15節
2022年9月25日

Ⅰ. はじめに

わたしの家の周りに土がむき出しになっている所があったので、土をならして種を蒔きました。地面を覆ってくれる葉の種を蒔いたのです。均等になるようにパラパラ蒔いたつもりでも、芽が出てくると、結構マダラになりました。しかし成長していくにつれて芽がでなかった所にも葉が増え広がって、やがて均一にキレイに覆われていきました。種を蒔いたあとの広がり方は、自分の意思とは関係なく、周りの草木と調和して、いろんな所に増えてます。育ててくださるのは神様の摂理だと思いました。

Ⅱ. パウロの支援活動

今日の聖書箇所には、種の蒔き方が書かれています。といっても植物の種ではありません。慈善活動に献金することを「種蒔き」と語っているのです。
9章の小見出しの所には、「エルサレムの信徒のための献金」とあります。「エルサレムの信徒」というのは、イエス様の弟子であったペトロやヨハネたちがいるエルサレム教会の人達のことです。エルサレム教会は、キリスト教会として最初に誕生した教会でした。しかし、使徒言行録に書かれている通り、そこはユダヤ教の中心地でもありましたから、ユダヤ人たちから激しい迫害を受けるようになったのです。また、飢饉の影響もあって生活が困窮しました。そのようなエルサレム教会のために、パウロは各地の教会で献金を集めてエルサレム教会を支援しようという運動を始めたのです。パウロは第一のコリントへの手紙でもエルサレム教会への支援献金の呼びかけをしましたし、この第二の手紙でも8章から、そのことを伝えていて、今日の聖書箇所まで熱心に訴えているのです。
ここで私たちが注目したいのは、コリント教会の人々にとって、エルサレム教会の人というのは、会ったこともない、知らない人々だったということです。私たちはペトロやヨハネを知っています。しかし、コリントはギリシャにあり、エルサレムは遠く離れたユダヤです。会ったこともない、名前も知らない人々を、同じキリストの教会に連なっているという、ただその一つのゆえに、相手を支えようとしている。パウロが行っていた献金活動とはそういうものだったのです。
教会の中で献金の話しになると「なんだ教会もお金かよ」と思われるかも知れません。とくに今、日本では統一教会のお金のことが取り沙汰されていますから「宗教はやっぱりお金か?」と思われてしまったら残念です。しかし、聖書にはお金に関わる話しが沢山でてきます。なぜならお金の扱い方一つで信仰が豊かにもなりますし、大きな躓きにもなるからです。そして、お金の扱い方においても神様の御心が聖書にしっかりと書かれているからです。

Ⅲ. 豊かに蒔く

今日の聖書箇所には「お金」とか「献金」とは本文に書かれてないので分かりにくいのですが、6節に「惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです」とあります。これはエルサレム教会への献金を捧げることを「蒔く」と表現しているのです。しかし、パウロはお金のことだからと遠回しに表現しているのではありません。宣教支援献金について「蒔く」と表現したパウロの言葉には意味があります。つまり、支援献金というのは決してお金を失うことではなくて、どこかで芽を出して実を結ぶからです。神の働き人を支援するということは、種を蒔くようなもので、献金をした人の思惑を超えて芽を出し、増え広がるからです。ですから「種を蒔く」とは比喩的に聞こえますが、こちらの方が真意に近いのです。パウロは第一コリントの手紙でも、「私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です」(1コリ 3:6)とも言いました。支援献金というのは、まさに誰かが種を蒔くのですが、その働きを成長させてくださるのは、神様であって、その成果は、想定外ですし計り知れないものがあるのです。
そして、パウロは「豊かに蒔く者は、豊かに刈り取る」と言ってますが、豊かというのは金額が大きいということではありません。「豊か」は原文の言葉では「賛美する」とか「祝福する」とも訳される言葉です。賛美したり、祝福するような心で喜んで献金するということです。出し惜しむということがない、心の在り方を言ってるのです。一方で「僅かに蒔く者」という言葉も、金額が小さいことではなくて、出し惜しむような心の在り方を指しているのです。勿論、パウロは無理をしてそのような気持ちで捧げなさいと言っているのではありません。10節にあるように「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたに種を備えて、それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます」と説明しています。「種と食べるパンを備えてくださる方」それは神様です。
私たちは誰かに献金するにしても、それを備えてくださるのは、あくまでも神様ですね。そして、献金した先で、その成果が増え広がるのも神様の働きです。それは献金をした人には計り知れないことですが、神の視点からすれば「義」とされて「増し加えて」くださるというのです。私たちは支援した献金が、どのような成果を発揮したかを気に掛ける必要はありません。祈りと同じです。それが、いつ、どのような形で実を結ぶかは神様の領域です。神様の時があるのです。そして必ず何らかの実を結ぶことになるはずです。その神様に対する信頼がしっかりしたものであれば、捧げることにも豊かに蒔くことができる。ですから7節「各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。神様の愛と正義と力を信じて、豊かに種を蒔く者を、神様は愛してくださるのです。
私たちは信徒宣教者の働きや、海外の宣教師のために献金をします。先日締め切りましたが、スペインにあるカンバーランド教会が行っているウクライナ避難民支援の活動に献金をしました。この教会の皆さんから集められた献金は、現地でどのように実を結ぶのか。勿論、報告は然るべき形で成されるのですが、そういった献金が、どのような形で実を結ぶかは計り知れないものです。しかし、必ず神様が用いて下さるから、私たちは会ったこともない、顔を知らない仲間の働きの為に、喜んで献金できるのですね。

Ⅳ. お金に対する神の御心

聖書にはお金に関わる話が沢山あると言いました。神様の御心に適ったお金の扱い方をイエス様はあるたとえ話で教えてくださいました。それがルカ福音書にある「愚かな金持ち」のたとえです。
あるところに、お金持ちが畑を持っていました。その年は豊作になって『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』というほど、大豊作だったのです。彼は考えました。『こうしよう。今ある倉を壊して、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や蓄えを全部しまい込もう。そして自分にこう言ってやるのだ。この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ』。しかし、神様はその人に言われた。『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。』
自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ 12:13-21)。
この愚かな金持ちは、豊かに種を蒔く人とは正反対の人です。自分の財産を自分だけで抱えて込んでいる人です。神様はお金だけではなくて、時間や能力や大切な家族なども、自分だけで抱え込んでいることを良しとしません。それらは自分で作って得たものではない、神様から与えられたお金であり、時間であり、能力であったり、家族も神様から与えられたものです。「タラントンのたとえ」でも、与えられた自分の賜物を上手に用いてて増やした人を神は喜び、与えられた賜物を土に埋めて用いなかった人を叱りました。神様の視点から見ればお金も賜物も時間なども同じです。それらを豊かに蒔く者は、神様に喜ばれ、豊かに刈り取ることができるのです。
エルサレム教会の、設立した当初のお金の用いられ方が使徒言行録に書かれています。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、必要に応じて、おのおのに分配されたからである」(使徒4:34,35)。教会に貧しい人がいなかったのは、裕福な人の財産を分け合っていたからだとあるのです。これは一見すると共産主義のようなコミュニティに見えますが、そうではなくて、信徒たちは自分の財産を持ちつつ、それをいつでも困った人に自主的に分け与えていたのです。
エレミヤ書には預言者エレミヤがバビロン軍に占領されてしまったアナトトという土地を購入する話があります。エレミヤは神様の御心に従って土地に投資をしたのです。なぜならその土地は神様がやがて必ず回復してくださると信じたからです。聖書に書かれたお金に関する神様の御心というのは、お金を惜しんでしまい込むのではなく、必要に応じて蒔いていくというものです。そして相応しいところにお金が落ちていくのは神様の計画であり御心でしょう。
これは聖書を基盤とした指針ですが、実態経済においても同じことが言えるそうです。かつて、スペインなどが世界の覇権を握った大航海時代がありました。それらの国が没落したのは、植民地で鉱山開発を第一に考えて、金や銀を確保することが国を豊かにすると誤解したからだという話しを聞きました。世界中に植民地を増やし、金や銀を貯め込んだのですが、そうすれば当然、金銀の価値は下がります。そして、勤勉に働いて産業を興すことを怠ったことから国は衰退していった。しかし、そうではなく自由な貿易でお互いの資源やお金を生かせば、結果として社会全体に適切な資源配分が成されることを「神の見えざる手」と経済学者のアダム・スミスは言いました。お金を抱え込むことから生かす事に、神様の御心が現れるのではないでしょうか。
パウロの働きに対して、エルサレム教会の人々も、献金をする側の人たちも、神の恵み深さを知ったのではないでしょうか。12節「この奉仕の業は、聖なる者たちの欠乏を補うだけでなく、神への多くの感謝で満ち溢れるものになるからです」。支援するという奉仕はお金を失うことではなくて、種を蒔くような喜びがあるのです。そして神を崇めることに繋がります。それこそが豊かな刈り取りの実です。
お祈りをいたします。