松本雅弘牧師
マタイによる福音書7章24-29節
2022年10月2日
Ⅰ. はじめに
今日から秋の歓迎礼拝が始まりました。今年は、「招きはあなたにも届いています」というテーマで、主イエスの譬えに耳を傾けて行きたいと思っています。
今日、お読みしましたイエスさまの教えは、「山上の説教」と呼ばれる、一連の説教の中で語られた、一つの譬えです。この「山上の説教」は、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」というたいへん有名な教えでもって始まる説教です。今日の聖書の言葉は、その説教の結論部分に出て来るイエスさまの教えです。
Ⅱ. 二つの生き方
ここでイエスさまは、二つの生き方を比較検討します。砂の上に家を建てるような生き方と、岩の上に家を建てるような生き方です。まずその二つの生き方に共通する点があります。当たり前のことですが、「自分の家を建てた」ということです。
私が小学校の低学年の頃でした。父が家を新築した時のことを今でも覚えています。父は商店を経営していましたから、比較的、時間に融通が利くので、毎日、何度も建築現場に行っては大工さんの仕事を嬉しそうに見ていました。そしてまた大工さんが一日の仕事を終わると、その現場を本当にきれいに掃除していました。
一日も早く新しい家が完成するのを待ちわびる一方で、毎日、現場に行っては大工さんの仕事ぶりをただただ見ている父親の姿から、その喜びが伝わってきていましたので、子ども心に、何か少しでも長くこうした幸せな時が続いて欲しい。そのため、ずっと工事が続いて欲しいとの思ったことを覚えています。
考えてみれば、家を建てるというのは人生に一度あるかないかの大事業です。父も銀行からの借入をして、家を建てたわけですが、そこにかなりのものを投じて初めて家が建つのだと思います。
ここに登場する賢い人も愚かな人も、二人とも「家を建てた」のです。それも聖書を丁寧に読めば、「他人の家」ではない、あくまでも「自分の家を建てた」のです。そうしますと、これまた二つ目の共通点が起こります。新築のそれぞれの家に対し、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲った」のです。
ところが、正反対なことが起こります。片方はびくともしないで「倒れなかった」わけですが、もう片方
は倒れた。しかもその「倒れ方がひどかった」、とその「倒れ方」までも丁寧に説明されています。
二つの家の、一体どこが違っていたか、と言えば、それは「土台」でした。片方は「岩を土台として」家を建て、もう片方は、「砂の上に家を建てた」からだ、というのです。
ここでイエスさまは、私たちの一度限りの人生を、家を建てることにたとえてお話されました。賢い人は岩の上に人生設計する人であり、逆に愚かな人とは、砂の上に人生という家を建てる人のことだと語っています。そして岩を土台とした生き方を、24節を見ますと、誰にも分からないとは言わせない程にはっきりと、「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と語っています。
いかがでしょう。イエスさまは「山上の説教」の締めくくりに当たって、私たちの人生という家が建っているところの土台、つまり、普段は目に見えないところでの生活、人の目から隠れている部分にスポットライトをあてているように思います。
牧師をしていますと、新築のお家に招かれて祝福のお祈りを捧げる機会があります。そのお家の方は、中を案内してくださるわけです。間取り、壁紙、インテリア。一つひとつ、とても素敵です。でも土台のことはほとんど話題にのぼりません。土台は見えないからです。
ところが、イエスさまは、目には見えてない土台を問題にしておられる。どこに土台を置くのか。砂の上ではなく、岩の上に土台を据えるように、と私たちに熱心に説いておられます。
普段、何もない時には問題がありません。しかし何か起こる時、イエスさまの言葉を使えば、「雨が降り、川が溢れ、風が吹く」ようなことは、誰の生活にも起こってきます。そうした時に、その外側からの出来事をどのように受け止めていくのか。その時に、普段は目に隠れている土台そのものの真価が問われる。
ではここで、イエスさまが言われる「岩の上に土台を置く生き方」とは具体的にはどのようなことかと言えば、「私のこれらの言葉を聞いて行う」ということです。そして、この「私のこれらの言葉」というのは他でもない、ここまでイエスさまが語ってこられた「山上の説教」全体であり、「聖書」と言い換えてもよいかもしれません。
Ⅲ. ベンとジョン
ところで、「エクササイズ」の二年目のテキストにベン・ジェイコブとジョン・ウーデンという名の二人の人物の実話が紹介されていました。
今日の譬えのように二人には幾つもの共通点がありました。生まれた年は同じで、二人とも二十五歳の時に仕事を始めています。そしてある意味、二人とも成功を収めています。ところが、人生の締めくくりのところで、二人は対照的なのです。確かにベンは、使いきれないほどの蓄えがありましたが、家族から相手にされず、一人娘も彼には近寄らず、周囲から煙たがられ、疎んじられ、訪ねて来る友人もなく、本当に寂しい人生を送っていました。自分は成功を手に入れたと思っていたのですが、「成功の定義」が間違っていたことに気づき始めたのが、75歳の時でした。
一方、ジョンもベン同様に二十五歳で仕事を始めるのですが、その時、決心したことがありました。それは、自分の人生を聖書の教えを土台とすることだったのです。確かに彼は、UCLAの伝説のバスケットボール・コーチとして成功を収めるのですが、それ以上に、本当の意味で祝福された人生を送って行きました。私生活では、53年間、妻のネリーさんと連れ添い、75歳になった時に先立たれますが、天に引っ越した妻との再会を楽しみにしながら日々を送っています。彼の所には、教え子たちが入れ替わり立ち代わり、彼を慕って訪ねてきていたそうです。改めて、私は、75歳になった時、ジョンのようでありたい、と切に願わされたことでした。
Ⅳ. 賢い方の生き方を選び取りなさい
実は、そのために私が出来ること、イエスさまが勧める、私自身が選び取るべき生き方があることを、今日の譬えは私たちに教えているのではないでしょうか。それは聖書を人生の土台とすることです。
私たちは、聖書という岩を土台にして人生設計をしていくのか、それとも別のものを頼りに生活の安定を図るのか、それは私たち一人ひとりが選択すべきこと。私たちの側の責任、私の側で出来ることです。
繰り返しになりますが、私は、やはりジョンのようでありたい、と思います。そしてイエスさまも、岩を土台とする生き方を選び取るように、と切に勧めているのです。
さて、最後に、キリストの言葉を土台として選ぶことをしなかったベンに触れて終わりにしたいと思います。実は、このベン、本当に幸いなことに、75歳の時に、イエス・キリストを信じ、そのお方に従って生きる決心をしたそうです。つまり、75歳の時に、岩を土台とする生き方を選び直したのです。
その後、88歳で亡くなるまでの13年間、彼は本当に変えられた人生を送りました。仲たがいしていた娘とも和解したそうです。娘さん曰く、「晩年の父は、別人のようだった」ということでした。
ベンにとっての最初の75年間は、確かに世間の物差しでは成功を収めたことでしょう。でも、当の本人はそうした感覚はなかったようで、焦りや不安、敵意や怒りで心が休まる暇もない、暗い人生でした。
しかし、放蕩息子であった彼が75歳になった時に、ようやく、父なる神さまの許に立ち返ることができた。そして最後の13年間は、本当に変えられた人間らしい豊かな人生を送ることができた。何故?キリストの言葉を土台とすることを決心したからです。
「エクササイズ」のテキストにもありましたが、ベンのことを考える時、信仰を持つのに遅すぎることはないということに、改めて気づかされます。
何故なら、「死んだら御終い」ではない、「今が恵みの時、今が救いの日」だからです。キリストの言葉に生きることに努めた13年という年月は、確かに88年の生涯の内では、ほんの僅かな期間、十分の二にも満たないような年月だったでしょう。でも、永遠というスパンで考えるならば、75年間も13年間もあまり変わらない。いや、遅すぎることなど決してないからです。
確かに、過去を変えることはできません。やったことをやらなかったことにすることは出来ないからです。でも、これからのことについて、これからどう生きるかについては、ある意味で私たちの選択にかかっています。その選択の結果、どのようにでも変わり得るわけですから。
イエスさまは、権威をもっておっしゃる。
「賢い方の生き方を選び取りなさい。私のこれらの言葉を聞くだけであってはならない。聞いて行う者になりなさい。それこそ岩の上に家を建てた賢い人なのだ。」と。
お祈りいたします。