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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

招きはあなたにも届いています

松本雅弘牧師
ルカによる福音書14章7―11節
2022年10月9日

Ⅰ. はじめに

ある日、主イエスが、ファリサイ派に属するユダヤの宗教指導者の家に行き、同じように招かれた客たちが、上席を選ぶ様子をご覧になってお語りになったのが、「客と招待する者への教訓」と私たちの聖書には小見出しがついていますが、この譬え話です。
今日は、説教に「招きはあなたにも届いています」という題を付けましたが、主イエスが語られた、この譬え話に耳を傾けて行きたいと思います。

Ⅱ. 私たちにとっての席順

結婚式の披露宴での席順ほど頭を悩ませるものはない、と聞いたことがあります。私には4人、子どもがおりますが、その内の3人が、コロナ前に結婚しました。そしてそれぞれ披露宴を行いました。詳しくフォローできていませんが、あの安部元首相の国葬の席順でも、主催者である政府は本当に気を使ったことだと思います。同じように公式の会議での座席の配列もそうでしょうし、記念写真の時に立つ位置もそうです。私たちの身の回りでも、いろいろな順番を巡る争いや苦労話を聞かされることがあるのではないでしょうか。
今日の譬え話を見ますと、主イエスの時代のユダヤでも、そうしたことが日常的に問題となっていたようです。「婚礼の祝宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたより名誉ある人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うだろう。その時、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。」(8,9節)
披露宴での席順なんて、考えてみればどうでもいいことなのですが、でも当事者になった時、やはり問題となります。何故かと言えば、それによって「自分の評価が示される」と感じるからです。
私が小学校五年生の時、大学出たての先生がクラスの担任になりました。当時、私は、帰宅すると、ランドセルを放り投げ、ベーゴマ、メンコ、野球などに熱中し、夕食直前まで真っ黒になって遊んでいました。ところが、その先生が担任になった結果、クラスの中に大きな変化が起こりました。
その先生が私たちの「主要四科目」、国語・算数・理科・社会のテストの平均点を学期末に表にして配布したのです。それだけではありません。四科目の平均点でクラス全員を成績順に「序列化」しました。子ども心にショックを受けたことを覚えています。
その結果、お互い見る目が変わってきました。泥だらけになって遊んだ仲間も同じ思いを持ったに違いありません。成績によって全てが決まり、多少おおげさな言い方かもしれませんが、成績によって「人間のランク付け」がなされたような妙な感覚を持ったことを思い出します。しかも、国語・算数・理科・社会が「主要四科目」と呼ばれ、大切なものがそれしかなく、音楽や図工、ましてや体育などは他の教科に比べ大事ではないかのような印象を子ども心に刻み込まれました。「主要四科目」ですから。つまり私たちの間に、一種の「競争」が始まったのです。競争心に火がついたのです。私も負けん気が強いほうでしたから一生懸命競争しましたし、その後、中学に進学し、それが加速されました。
実は、こうした「競争」には一つの「落とし穴」があるように思うのです。勉強を例にとれば、「何のために勉強しているか分からなくなる」という落とし穴です。人よりいい成績をあげること、人よりも一点でもよい点数を取ること自体が目的となります。受験でしたら偏差値が問題となり、いい学校の基準も偏差値の高い学校がいい学校となる。そして社会に出れば、先週の話ではありませんが、その人の社会的影響力や、その人の稼いだお金の額などが大きな問題となってしまう。様々なことが数値化され、いつの間にか競争が始まってしまうのです。
聖書に戻りますが、7節を見ますと、ここで主イエスがお語りになった譬え話は、主イエスが、婚宴に招かれた客が上席を選ぶ様子に気づいて話されたのだ、とそのきっかけについても伝えています。
一般に私たち日本人は、自分から上席に座ることは「はしたない」と考えます。でも心の中では、ある程度、自分はどの辺に座るのが適当かを考えている。ただ結果的に、その通りに配慮されないと不愉快になったり、ましてや「下」と思っていた人間が良い席に着いたりしたら、私たちの心は大いにざわついてしまうのです。

Ⅲ. ヘンリ・ナウエンの言葉を手掛かりに

さて、今週の木曜日に女性会の修養会が行われます。その時に、ヘンリ・ナウエンというクリスチャンが書いた文章を紹介しながら、お話ししようと思っているのですが、説教を準備しながら、ナウエンの言葉と響き合う内容なので、今日もご紹介したいと思うのです。ナウエンはこのような私たちの状況を次のように描写しています。
「今日の世界では、わたしたちはみな、何かを成し遂げたいという強い願望を持っていることは明らかです。ある人は社会に劇的な変革をもたらしたいと考えています。他の人は、家を建てることさえできたら、本を一冊でも書けたら、機械を一つでも発明できたら、あるいは一回でもトロフィーを獲得できたらと願っています。またある人は、誰かのために何か価値あることさえできたら満足すると思っているようです。
じつのところわたしたちはみな、自分自身の人生の意味や価値を、自分のこのような貢献度によって測ろうとしています。すると、年を取ってくると、わたしたちの幸福感や悲哀感は、自分がこの世界とその歴史に、どれだけ影響を与えたと感じられるかによって左右されるようになります。」さらにナウエンは次のように続けます。
「…何か意味のあることをしたいとする願望は、それだけに終わらず、自分がしたことの結果を、自分の価値を測る物差しにしてしまうことが多いのです。そうすると、何かを成し遂げたと言うだけでなく、自分の成し遂げたことを自分自身だと思うようになってしまいます。…すなわち、人生とは、わたしたちの価値を決めるポイントを誰かが書き込んでいる大きなスコアボードである、と。…つまり、色々な点で成功しているから、わたしたちには価値があるということになります。そして、わたしたちの業績―したことの結果―を、自分の価値を決める物差しにしてしまえばしまうほど、わたしたちの心も魂も、いつもびくびくして暮らすようになります。それまでの自分の成功によって作られた期待を裏切らないでいられるかどうか心配します。成功するに従って思い煩いが募るという、悪魔的とも言える連鎖にとらえられて暮らしている人は実に多いのです…」
このあたりで止めておきますが…。私たちのしたこと/できること、英語で表現するならば“doing”が私たちの人としての価値を決める、という考え方です。

Ⅳ. 招きはあなたにも届いています

さて、このような物語に支配されている私たちに対して、主イエスは、今日の譬え話をお語りになったのです。実は、イエスさまはよく、婚宴や宴会をたとえに用いられました。「神の国は宴席のようなものだ」と言われるのです。「神の国」というのは、聖書に馴染みのない方は分かりにくいかもしれませんが、神さまへの信仰を持って生きるときに経験する「神さまの守り」と言い換えてもよいかもしれません。そして私たちは、恵み深く慈しみに満ちた神さまの守りの中にある時に深い平安を覚えることができるわけです。
ヘンリ・ナウエンの文章の中に、私たちの人生とは、私たちの価値を決めるポイントを誰かが書き込んでいる大きなスコアボードのようなものだ。いつの間にか自分の人生の意味や価値を自分がしたこと、出来た事によって決める。doingがその人の価値を決めるという「偽りの物語」に動かされているが、究極の物差しをお決めになる方、究極の価値なる神さまがおっしゃるのは、私たちの存在そのものが価値ある存在である。doingが決めるのではなく、あなた自身のbeingが既に価値ある存在なのだ、ということを繰り返し繰り返し語っているのです。そのことを聖書は、「あなた私の目に貴く、重んじられる。私はあなたを愛する」(イザヤ43:4)という表現で現しています。
確かに私たちは、日々の生活で上手く行かないことが多いかもしれません。なかなか陽の目を見ることができない。全てのことが上手くいかないと、悲運をかこつ人もいるでしょう。しかし、イエスさまがおっしゃるのは、全ての人たち、私たちは婚宴に招かれている。神の国、神の守りの中に招かれている。だとしたら、自分は選ばれていると言って高ぶり誇る者たちよりも、むしろ招かれていることに気づかずにいる人たち、いや招かれるにふさわしくないと思っている人たちが、実は、神の恵みの招きの豊さを本当に知ることが出来る人たちなのではないだろうか。そこではもはや序列や席の上か下かは問題ではなく、招かれた喜びが満ち溢れることでしょう。
この譬え話の結論部分で、「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)とおっしゃったのは、そのような意味なのです。
メンフィス神学校での学びをさせていただいた時、高座教会にも二度ほど来られた、ポール・デカー教授の教会に連れて行っていただいたことがありました。その教会も、礼拝堂の前に主の食卓、聖餐卓が置かれているのですが、このように四角い食卓ではないのです。円卓なのです。円卓の善さは、どこが上座か下座かの区別がつかない点です。そのことを意識して四角いテーブルではなく、丸テーブルにしたと話してくださいました。
私たちはみな招かれている。私たちに価値があるのは、私たちが何かができるとか、何かを成し遂げたからではなく、「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(新改訳2017-イザヤ43:4)と神さまが言ってくださるので、私たちは価値のある者であるのです。誰もが瞳のように尊い存在なのです。それが聖書の教えです。
私たち一人ひとりは、その神の国、信仰を通していただく神の守りの中に招かれている。招きはあなたにも届いていることを覚えて欲しいと願います。
お祈りします。