松本雅弘牧師
マタイによる福音書25章14-30節
2022年10月16日
Ⅰ. 私たちの悩み
私たちの悩みの一つは、自分で選んだのではない条件で生きていかなければならない、ということにあるかと思います。しかも、そうした条件が、しばしば私たちにとって悩みの種になることが多いように思います。
さて、今日、お読みしました、「タラントンのたとえ」は主イエスの譬えの中でも大変有名な話ですが、今お話したような悩みを抱える私たちに、大切な方向性を示す主イエスの教えのように思います。では、譬え話のあらすじから見ていきたいと思います。
Ⅱ. タラントンの譬え話
ある人が旅に出かけるにあたって、その家で仕える僕たちを呼んで、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出た、というところから譬え話は始まります。
ここに出てくる「タラントン」とは、元々は重さの単位です。ただそれが転じて貨幣単位として用いられるようになりました。テレビに出てくる才能に恵まれた人のことを「タレント」と呼びますが、その言葉は、聖書の「タラントン」が語源となっています。
調べてみますと、1タラントンは6千デナリオン。6千デナリオンとは健康な労働者6千日分の賃金です。安息日を除いて年間300日働いたとすれば、何と20年分の賃金に相当するのが、この1タラントン。かなりの大金です。
今日の譬え話によれば、5タラントン、2タラントン、そして1タラントンと、預けられる額に違いがあります。でも、一番少ない1タラントン預かった人でも、実際には本当に大きな額。つまり、誰もが、多くの賜物を預けられ、この世に生かされている存在なのだ、ということを教えられます。
ただそうは言っても、この譬えを聴く時、預けられたタラントンの違いが気になるものです。こうした違いはどこから来るのでしょうか。15節を見ていただきたいと思います。ここに見落としてはならない表現が出て来ます。「それぞれの力に応じて」と書かれています。確かに重さ10キロ
しか持つことの出来ない人が、常に50キロの荷物を抱えながら生きていかなければならなかったとしたら、とてもシンドイでしょう。
ここで主イエスは、私たちのことを、持ち物の量によって区別したり、評価したりはしておられない。むしろ、「それぞれの力に応じて」タラントンの量が違っているとおっしゃるのです。
そうした中、19節に次のように書かれています。「さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた」とあります。その続きの20節からの箇所には、5タラントン預けられた人は5タラントン儲け、2タラントン預けられた人は2タラントン儲けたのですが、1タラントン預けられた人は、「地の中に隠しておいた」というのです。そして結果的にその僕は、外に追い出されてしまったという結末です。
さて、少し戻り、14節に注目したいのですが、ここに譬え話のポイントが説明されているように思います。「天の国は、ある人が旅に出るとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである」と言った上でこの譬えが語られているからです。
「天の国」、別の言い方をすると「神の国」です。それは死んだ後に行く場所を指して、「天の国」とおっしゃったのではありません。先週の表現を使うならば、「神さまの御翼の陰/神さまの守りの中」という意味です。そのような意味で「神の国」とは「神さまの御思い」、聖書では「御心」と呼びますが、そうしたものが行きわたっている領域。しかも、その御心とは愛の御心です。そして、そうした神の御心は聖書の中に示されているわけですから、14節で「天の国は~のるようなものである」と言った上で、「タラントンの譬え話」を語られたということは、この譬えの中に、愛なる神さまの御心、聖書のものの見方が表されている、ということでもあります。
そうしたことを踏まえて、もう一度この譬え話に戻りたいと思うのですが、何も儲けることのできなかった1タラントン預かった者が外に追い出された。そのことだけを取り上げて解釈するならば、私たちの価値がその人の働きや成果にかかっている。そうしたことを教えている譬え話だと理解されてもおかしくないかもしれません。
あるいは「働かざる者、食うべからず」ではありませんが、働かなかった者は切り捨てられる、といったように読めなくもない。そうなると神の国もこの世界も結局、同じ価値観が支配しているではないか、と思われるかもしれません。
ここで「成果」を挙げた人に注目したいと思うのです。5タラントンの人は5タラントン儲けましたし、2タラントンの人は2タラントンを儲けたのです。成果主義で考えるならば、5タラントンの人は2タラントンの人よりも3タラントン多く儲けています。全体の合計で言えば、5タラントンの人は10タラントンになり、2タラントンの人は4タラントンですから、両者の差は6タラントンに拡がっています。
でも、どうでしょう。とても興味深いことが分かります。それは、主人がこの二人に対して、全く同じことを言っているという事実です。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」、新共同訳では「主人と一緒に喜んでくれ」となっています。ギリシャ語を見ても、一字一句全く同じです。成果の違いによって評価は変わっていない。全く同じなのです。
Ⅲ. ちがいが強み
ところで、この譬え話を読む時、私たちの注意はどちらかと言うと5タラントンと2タラントンの人、すなわち働いた人、成果を上げた人に向きがちだと思います。それに対して1タラントン預かったのに、何もせずに土の中に埋めた人を、いわゆるダメ人間というレッテルを貼ってしまうことがあるかもしれない。
このことについて少し考えてみたいのですが、なんで土の中に埋めたのかを語る、この人の言い分にもう一度耳を傾けてみたいと思います。24節と25節をご覧ください。
「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出て行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」
ここに、この人の本音が出ています。主人に対する恐れ、恐怖です。預かったお金をなくしたり、減らしたりしたら、とんでもない目に遭う。何とか無難に持ちこたえたい、という恐れでした。こうした考え方は、当時のユダヤ教の指導者たちの考え方、律法学者、ファリサイ派の人たちの考え方だったと言われます。
神さまを信頼し、神さまを愛しているから何かする、あるいは何かをしないというのではなく、やったり、やらなかったりすることの動機は、落ち度がないように、人から批判されないように、人の目を恐れる人間の姿があります。さらに突き詰めて考えてみるならば、神なんかはいない。自分で自分の人生を何とかしなければならないという生き方であり、人生の主はまさに自分自身であるという物語でしょう。
そうした物語/ものの考え方に対しこの譬え話は、この世界には慈しみ深い神がおられ、私たちはそのお方の守りの中で、それぞれの力にふさわしく生きるのですよ、と語っているのです。ただ、そうだとしても、タラントンのちがいは何なのだろうかという問題は残ります。
ワールドカップでMVPを獲得した澤穂希(さわほまれ)さんがテレビに出演していました。彼女はリズム音痴なのだそうですが、その悩みを専門家に相談していました。その内のひとりの専門家が興味深いことに気づいたのです。「澤さん、それがあなたの強みだ」と話すのです。その人曰く、人とちがう微妙なタイミングのズレがあるからこそ、一対一の場面で相手をかわしてシュートできる。だから本人が弱点と感じている、そのズレを修正するのではなく、むしろそれを強みとして生かすように、とのアドバイスだったのです。
コリントの信徒への手紙第1の12章18節に次のような言葉があります。「そこで神は、御心のままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」
私が私に造られたのは、慈しみ深い神さまの御心によるものだというのです。ちがいを恐れる必要など全くない。もっと言えば、現時点で弱点と感じることも含め、私自身の抱える私の一部、もちろん、それがこの先、どう生かされるのか、現時点では受けとめられないかもしれません。でもこの聖書の言葉によるならば、その弱点と思える部分も含め、神さまが良しとしておられる、というのです。
ですから、私たちがすべきことは三つある。一つは、神さまが私に預けておられる賜物や個性を発見すること。二つ目に、それを神さまからあなただけに預けられたものとして、努めて磨き大事にしていくこと。そして最後、三番目のことは、それを用いて人々に仕えることです。決して、使わずに地の中に隠してしまうのではありません。用いることです。
5タラントンの人と、2タラントンの人に向けて語られた主人の言葉をもう一度見て見たいのです。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」
つまり主人が私たちにタラントンを預けた大きな目的は何かと言えば、主人の喜びを共にする、ということでしょう。神さまは全知全能のお方です。ご自分ですべてのことをなさることができる。しかし、神さまは、喜びを分かち合おうと、私たちを招き、タラントンを預け、生かして用いるようにしてくださった。
小さな子どもが、台所で、お母さんのお手伝いをする時、本当に満足をする。大きな喜びで満たされる。お母さん一人でしてしまえば、時間もかからず、おいしく仕上がる料理ですが、あえて、子どもに手伝わせると手間もかかります。効率もよくないかもしれません。でも、そうする。何故?作る喜び、作った物を家族が食し、喜び合う幸せを子どもと一緒に分かち合うためです。
Ⅳ. 偶然ではない人生-「ボクがボクになる」という目標
今日の説教のタイトルに「偶然ではない人生」とつけました。「偶然」でなければ、運命なのでしょうか。そうではなく、聖書はそのことを「摂理(せつり)」と呼びます。英語で“providence”という言葉は“provide”すなわち「用意する/調達する」という動詞からできた言葉です。「神さまが備えておられる/神さまが準備しておられる」ということです。
カトリックのシスターの渡辺和子さんが、50歳でうつ病にかかり悩まされていた時に、診察した医師が彼女に「運命は冷たいけれども、摂理は温かい」という言葉をかけたそうです。それ以来、人格的な神さまの配慮、備えの中で、今、自分が生かされていることを信じて歩んでこられたそうです。
預けられているタラントンや賜物は一人ひとりが皆ちがうのです。神さまから預かった命を生きる。精いっぱい生きる。
「大きくなったら何になりたいと聞かれて/大きくなっても何にもならないよ/ボクはボクになるのだ」。五歳の子が、こうした詩を作ったそうです。
確かに、どんなつもりで書いたのか分からないですが、でもとっても大切なことを言い当てた詩だと思いました。「ボクはボクになる―自分が自分になる」。これはある意味で、私たち全ての者に与えられている、大切な生きる目的、人生の目標なのではないでしょうか。
この世界は偶然が支配しているのでも、運命が支配しているのでもない。この世界は神がおられ、神さまが摂理の御手をもって私を生かしておられる。その神さまのお守りの中で日々を生きることが許されている。それは何と幸いなことだろうかと思います。
お祈りします。