松本雅弘牧師 説教要約
イザヤ書30章15-22節
ルカによる福音書5章33-39節
2023年1月1日
Ⅰ.はじめに
新年あけましておめでとうございます。
昨年一年を振り返りますと、ウクライナ危機、さらに先月末には、日本でも増税により軍事費を拡大し、「専守防衛」という前提が骨抜きにされてしまいました。
コロナ・パンデミックも三年目を迎えた年でした。「地球号」という同じ乗り物に乗っている者同士ですから遠く離れた所で起こったことでも、「対岸の火事」では済まされません。物価の高騰があり、本当に身近なところでそうした現実を知らされます。また私たち教会の歩み、そして一人のキリスト者としての歩みを振り返る時に、どうだっただろうか、と思います。
そうした中、今年、最初の礼拝の招きの言葉は、使徒パウロがコリント教会の兄弟姉妹に送った手紙の一節です。「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(Ⅱコリント5:17)と宣言してくださる。「にもかかわらず」の愛をもって、私たちの中で始めてくださった救いの御業を完成へと導いてくださる。
私たちの神さまは「事を始めるお方」であるとともに、「始めたことを必ず完成なさるお方」でもあります。私たちの内に働きかけ、思いを起こさせ、かつ実現に至らせるお方です。ですから、2023年という今日始まったこの年も、そのお方と共に歩んでいきたいと願います。この恵みに支えられ、自らを、兄弟姉妹を、世界を、この新しい年を喜んで受け入れて、歩むことができますように、祈り求めていきたいと思います。
Ⅱ.新しいぶどう酒は新しい革袋に
今日は今年最初の礼拝ですので、今年の主題聖句を含む箇所を読みました。
ところで、ユダヤでは昔から断食の習慣がありました。元々断食は、祈りに集中するための手段の一つでした。ところがファリサイ派の人々を中心に、宗教的な熱心さのゆえから、年に数回だった断食の回数が、月曜日と木曜日の週二回になっていたようなのです。それも、神さまの恵みを味わう目的で行う手段だったにもかかわらず、神の御前に高く評価されるべき功徳として断食を位置づけ、手段である断食が目的化して行った実情があった。人に比べ多くの回数、断食をしていることを、ファリサイ派の人々は誇りに思っていたわけです。
このような中、「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」と断食をしていない主イエスの弟子たちのことを問題視した人たちが質問したのです。
当時の人々の目からすれば、主イエスの振る舞いや行為が、どこか宗教的伝統をおろそかにしていると映った、それで批判の対象となっていたのです。
私たちの社会でも、また教会の中でも同じようなことが起こると思います。一方に古い伝統をしっかり守り、それから決して反れないように、と考える人たちがいるかと思うと、他方では形式にとらわれず、むしろ古い伝統には反発して新しい生き方を求めようとする動きもある。こうした彼らの疑問に対する応答が34節からの言葉でした。
ここで主イエスは「婚礼の譬え」を語られました。イエスさまはよく婚礼のことを譬えとして用いられます。その場合、終末的な救いの喜びを象徴するものとして語られていました。つまりそこでは、メシアを花婿に譬えてお話されるのです。この時も同様でした。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」。これが主イエスの教えのポイントでしょう。
断食という宗教的な伝統や形式にしがみついて生きることより、キリストと共に生きることこそが大切だとおっしゃる。断食の目的もそこにあったわけですから…。
そうした上で、今年の主題聖句が続きます。38節、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」。私たちがいただいている救いは、古い服の仕立て直しではない。私たちの救いとは、新しい人間の創造なのだ、と主イエスはおっしゃるのです。
主イエスを信じて生きることは、質的な新しさをもたらす。古い伝統や古い習慣によって信仰を補強しようとするようなことは逆戻りすることで、そのようなことをし続けていったら革袋は張り裂け、ぶどう酒も革袋もだめになってしまう。まさに今日の礼拝への招きの御言葉の意味するところでしょう。
Ⅲ.ウィズ・コロナ時代と教会
昨年、アメリカで開かれた総会に出席した際、改めて、コロナ感染症がアメリカの教会に与えているダメージの大きさ、深刻さを知らされました。会場で食事をしていますと、牧師が、同席していいか、と声を掛けて来ます。席につくなり「コロナの影響はどうか」と尋ねるのです。何人かの牧師がそうでした。
牧師たちの話によれば、コロナ感染症のパンデミックが起こり、素早くオンライン礼拝に切り替えた。そしてパンデミックが落ち着き、社会全体が正に「ウィズ・コロナ」の生活に移行し始めた。しかしそうした中、元に戻らないままなのが教会なのです。礼拝に教会員が戻ってこない。その結果、活動も活動を支える捧げ物も深刻な状況に置かれている。「日本は、どうか?」というのが、総会会場で、何人かの牧師たちから訊かれた質問でした。今後、日本社会はどのようにコロナと付き合っていくのか分かりませんが、仮にアメリカのように、以前とまったく同じように社会全体が動き始める中、果たして日本の教会、また高座教会はどうなのだろうか…。それ以来ずっと考えさせられていることです。
確かにコロナを経験した私たちは、オンラインというツールを駆使し、今まで届かなかった方たちに御言葉を届けたりすることが出来ました。会議の効率化や、会議に出席するための行き来の時間が劇的に短縮されました。コロナを経験し丸三年が経とうとする今、こうした経験をふり返り、今後に生かすことが出来るかを考える、また一方でオンラインではどうしても実現できないことは何かを確認する。そうしたことが、今年、「ウィズ・コロナを見据えて」をテーマとして掲げて歩む私たちにとって、大切なこととなるのではないかと思います。
Ⅳ. 私にとっての「新しいぶどう酒は新しい革袋へ」
先日、自然豊かなところを歩いていましたら、道の横に綺麗に咲いているアザミの花に目が留まりました。とても美しい。しっかりと咲いている。喜んで咲いている。創り主なる神さまを讃美している姿として、私の目に映ったことです。
以前、山道を歩いていてそんな小さな花を見つけた時は、〈こうした所に咲いている花は誰の目にも留まることもなく、枯れていくのだろう…〉と、そう思った時に、何か悲しい、そしてその花に対して「気の毒な思い」を持ったことを思い出しました。そしてふと、「誰の目にも留まらない」、裏を返せば、誰かの目に留まることが、私にとってとても大切だったのだなぁ、と私の心の中にあった「物語」に気づかされました。
ヘンリ・ナウエンが次のようなことを語っています。
“多くの声が私たちの注意を促します。「おまえがよい人間だということを証明しろ」と言う声があります。別の声は「恥ずかしいと思え」とささやきます。また「誰もおまえのことなんか本当には気にかけちゃいない」と言う声もあれば、「成功して、有名になって権力を手に入れろ」という声もあります。
けれども、これらの非常にやかましい声の陰で、静かな、小さな声がこうささやいています。「あなたは私の愛する者、私の心にかなう者」と。それは、私たちが最も聞くことを必要としている声です。しかしその声を聞くには、特別な努力を要します。孤独、沈黙、そして聞こうとする強い決意を必要とします。
それが、祈りです。それは、私たちを「私を愛する者」と呼んでいる声に耳を傾けることです。“
アザミは、私に気の毒がられようが、あるいは美しさを賞賛されようが、そうしたことに関わりなく、真っすぐに主を讃美し咲いている。それは、日常、周囲の、非常にやかましく、大きく、響き聞こえて来る様々な多くの声の中にあって、ナウエンが「私たちが最も聞くことを必要としている声」と表現した、静かで、小さく囁く「あなたは私の愛する者、私の心にかなう者」という神の声を強い意志をもって聞き続けていたのだと思わされされたことでした。
私たちを取り巻く世界から、今年も様々な声が聞こえて来ます。また自分自身の中からも囁きが聞こえてくることでしょう。しかしそうした中で、愛する神さまの御声を聴くために、まずは神さまの御前に出て、神を礼拝する時が「ウィズ・コロナ」の時代に入った今でも、いや、今だからこそ、大切になってくるのではないでしょうか。そのことを再吟味させていただき、私にとっての「新しいぶどう酒は新しい革袋へ」を考える一年にさせていただきたいと思います。
「神よ、変わることのないものを守る力と、変えるべきものを変える勇気と、この二つを識別する知恵を与え給え」とニーバーが祈りましたが、この祈りを、私たち一人ひとりの祈りにさせていただきたい。識別の知恵を神さまから頂きたいと願います。
お祈りします。