歴代誌上29章10-20節
ヨハネによる福音書3章22-30節
2023年2月5日
Ⅰ. 「生きる」
神さまの/大きな御手の中で/かたつむりは/かたつむりらしく歩み/蛍草は/蛍草らしく咲き/アマガエルは/アマガエルらしく鳴き/神さまの大きな御手の中で/わたしは/わたしらしく生きる
小学校4年生の時に、赤痢にかかって、口を利くことも、また体を動かすこともできなくなってしまい、「あいうえお」の表を見ながら瞬きで一つひとつの言葉を紡いだ「瞬きの詩人」と呼ばれ愛された水野源三さんの「生きる」という詩です。私は、洗礼者ヨハネのことを思いながら、この詩を思い出したことであります。
そこには自分以上でもない、自分以下でもない、ありのままの自分として、しっかりと生きる水野源三さんの姿が、今日の箇所に出てくる主イエスを証言する洗礼者ヨハネと重なるからです。
Ⅱ. 洗礼者ヨハネの弟子たちの不満
主イエスは弟子たちを連れて「ユダヤ地方」に移動しながら洗礼を授けておられたとヨハネ福音書は伝えています。一方、洗礼者ヨハネはガリラヤ湖と死海の間で、ヨルダン川の西側の地で活動していました。
「イエス」という名の教師が登場するまでは、人々はヨハネ先生に注目し、先生から洗礼を受けることを願い、先生の教えに喜んで耳を傾けていたのです。ところが今や情勢は一変し、「イエスは上り坂、そしてヨハネは下り坂」となった。ヨハネ1章にも出て来ました、アンデレやシモンも先生よりも後からやって来たイエスの方についてしまった。そんな中、ヨハネの弟子たちはしびれを切らしたのだと思うのです。
「ヨハネ先生、あのイエスと言う人は、あなたから洗礼を受けた人でしょう。それが今、みんなあの人の方に行っていますよ。放っておいてよいのですか」。そう言いたかったのではないかと思います。
Ⅲ. 洗礼者ヨハネの生き方
こうした弟子たちの投げかけに対する洗礼者ヨハネの応答がとても冷静かつ謙虚なのです。「私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ」(28節)。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている」(29節)。「あの方は必ず栄え、私は衰える」(30節)。洗礼者ヨハネはこのように答えたのです。
特に、30節に記されている最後の言葉は、直前の29節との関連で読むべき言葉だと思います。つまり諦めとかひがみや悔しさからの言葉では決してなかったと思います。むしろ、ヨハネ自身が「私は喜びで満たされている」と告白するように、そのことを喜んでいる、という証言の言葉でしょう。
このヨハネの証言から、イエスをキリストと信じて歩んでいた信仰の大先輩、洗礼者ヨハネの生き様から三つのことを学びたいと思うのです。
一つは、洗礼者ヨハネは「自分が何者であるかを知っていた」ということ。もっと言えば、「自分は誰であって、誰でないかをはっきりとわきまえていた」という点です。
私たちは自分が見えない時、人の言葉に揺れ動くことがあります。アンテナを張り巡らすように周囲に気を遣って生活していますと、確かに様々な情報をキャッチできますが、反面、必要以上に人の意見や評価に踊らされ、自分を見失ってしまうことが起こります。人の顔色を伺(うかが)い、行動に一貫性を欠いてしまいます。でも洗礼者ヨハネはその逆の生き方だったと思います。ヨハネは自らを「あの方の前に遣わされた者」、つまり「あくまでも自分は主イエスの先駆けとして遣わされた者」と告白し、自分以上でもない、また以下でもない等身大の自分を受け入れ生きていました。
私たちは神さまを見失うと、必ず「横との関係」が気になってしまいます。「人と比べて生活していても、何の良きこともない」。誰もが頭で分かっていることでしょう。でも、そうしたことが身についてしまっている。いつもそうしてしまう。なんで人と比べたがるのでしょう?人の目が気になるのでしょう?聖書は語ります。それは、本当に気にすべきお方の眼差しを気にしていないから。それが聖書の答えなのです。
神さまは私たちを人間として造ってくださった。聖書によれば人間とは「上を向く者」、「神を礼拝する者」です。上を見上げて神を礼拝する時に始めて、私は私として生きることができる。ある方は、それは人生に縦軸をいただくことだ、と語っていました。
「主を畏れることは知識の初めである」という有名な御言葉があります。「畏れる」という漢字は「恐怖」の「おそれる」を当てるのではなく、「畏敬の念」の「おそれる」という漢字です。畏れ敬う、尊敬する。言い換えれば、「神さまを神とする」ことです。
真の神さまを神として敬(うやま)わない時に、不思議ですが私にとって「別の何か」が必ず「カミ/私を救い、私を支え生かすもの」になる。例えば、お金だったり、持ち物だったり、友人からの評価であったり…。洗礼者ヨハネは、「神さまと自分との関係」、人生に「縦軸」をいただいていましたので、「横の人間関係における比較の世界から自由だった」のです。
二つ目は何でしょうか。それは自分をお造りになった神さまとの関係において自分が誰であるのかを知っていた、ということです。
ヨハネは「花婿イエスさまの介添え人だ」と語っています。当時、ユダヤの結婚式での「介添え人」とは「結婚を成功させる仲人」のことです。ここでヨハネは結婚を譬えに語っていますが、花婿イエスさまに紹介される花嫁が、実は、「私たち」です。花婿なるイエスさまと結婚するために、私たちは様々な意味で準備を必要とします。
ご存知のように洗礼者ヨハネは「悔い改め」を説きました。身を清めて待つために、「罪のゆるしの洗礼」を施しました。ですから、晴れて結婚が成立したならば、当然、「介添え人」の役目も終わり近くなります。ですから「あの方は必ず栄え、私は衰える」と語ったのはそうした意味です。そのように自分はどのような者かをわきまえていましたから、結婚の成立を見た時に、介添え人としてのヨハネは大いに喜んだのです。何故なら、自分が誰であり、自らのなすべき務めを受け止めて生きていたからでしょう。
最後、三つ目ですが、「人は、天から与えられなければ、何も受けることはできない」と語る洗礼者ヨハネに「信仰の確信」を見る思いがします。
ご存知のように、洗礼者ヨハネの活動の現場は「ユダヤの荒野」がメインでした。ヨハネが活動した「荒野」、それはユダヤの人々にとって特別な思いを抱かせる場所でした。ユダヤ人はそこで何を経験したか。それは自らの罪です。自らの罪を嫌というほど知らされた場所が荒野だったのです。そして「荒野」にはもう一つの側面があります。それは、そのような自分たちを見捨てず、愛と忍耐とをもった導きを体験した場所こそが荒野だった。つまり、「人は、天から与えられなければ、何も受けることができない」ということをイスラエルの民は繰り返し繰り返し体験した。それが荒野だったのです。
人間がとうてい生きていくことのできない場所、神の助けなくしてはどうにもならないような場所が荒野です。人間の罪が深ければ深いだけ、神さまの愛をその場所で体験していった。それがイスラエルの民による「荒野の体験」でした。
神さまの他、誰も頼ることのできない荒野の経験により、ヨハネの口から確信の言葉が語られた。27節「人は、天から与えられなければ、何も受けることができない。」これはヨハネ一人の確信ではなく、私たち一人ひとりが神さまに真剣に求めるべき、大切な信仰の確信なのではないかと思います。
Ⅳ. 「人は、天から与えられなれなければ、何も受けることができない」
冒頭で、水野源三さんの詩を紹介しましたが、最後にもう一つご紹介して終わりにしたいと思います。
たくさんの星の中の一つなる地球/たくさんの国の中の一つなる日本
たくさんの町の中の一つなるこの町/たくさんの人間の中のひとりなる我を
御神が愛し救い/悲しみから喜びへと移したもう
水野源三さんはどうにもならない「自らの小ささ」を実感しつつ、そのような小さな者を愛し、救い、悲しみから喜びへと方向転換させる神さまの御手の働きに驚き、感動しています。これはまさに洗礼者ヨハネが語る、「人は天から与えられなれなければ、何も受けることができない」という信仰の確信に通じる告白なのではないでしょうか。
「人は、天から与えられなれなければ、何も受けることができない」。言いかえれば、上手くいってもいかなくても、失うものなどない。全ての良きものは、天から、すなわち神さまから与えられるもので、私たちが自分の力や努力で生み出すものではない。必要なものは必ず神さまが与えてくださる、失うものなど何もないのだ、と言う本当に力強い確信の言葉です。
洗礼者ヨハネはこの確信に生きることで、主イエスがキリストであることを喜びをもって証しすることが出来た。私たちもこのヨハネに続く者でありたいと願います。
お祈りします。